都城市民会館を守るシンポジウム
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シンポジウムの全文を記載します。
ちょっと長いですが、鈴木先生の熱いメッセ-ジ、知られざる市民会館の建設秘話、各地の保存の事例など、必見の価値があります。とくとご覧あれ。
※なお、文責はこのホ-ムペ-ジの作者にあります。
「都城市民会館を守るシンポジウム」
2006年7月22日(土)16:30~
会場:ホテル中山荘(都城)
(司会者)
ただいまより、都城市民会館を守る会と日本建築家協会九州支部による「都城市民会館を守るシンポジウム」を開催いたします。
本日は、昨日から降り出した雨のために、九州各地から参加される予定の建築家協会の15,6名のみなさんが、熊本で足止めになり参加が不可能になりました。まったく残念なことでありますが、予定どおり本会は開催したいとおもいます。
本日のスケジュ-ルは、鈴木博之先生の基調講演、その後、岩切平さんをコ-ディネ-タ-にしてのパネルティスカッション。そして、19時30分をめどに交流会を予定しています。
まず、主催者を代表して、三田代表に挨拶をしていただきます。
(三田代表)
みなさん、こんにちは。「都城市民会館を守る会」の代表をしております三田です。先週の週間天気予報では、きょうの天気はくもり時々晴れ・気温が35度近くになる予定でしたけれども、梅雨前線の関係で急にこんな天気になりまして、ほんとうに足元の悪いなか、たくさんおいでいただきまして、心よりお礼申し上げます。
わたしたちが、都城市民会館の保存にかかわりはじめましたのは、昨年の3月に、都城市職員のプロジェクトチ-ムが、市民会館についての中間報告をいたしまして、それから5ヶ月後、8月ごろになりまして、どうやら市民会館は壊されるらしいという噂を聞いたことです。わたしたちはMAPというグル-プで活動をしておりまして、そのなかで、まず取り壊しに反対のアピ―ルを出そうというところからこの保存運動をはじめています。きょう、くしくも、新しい文化ホ-ルの落成式と新しい都城市誕生の記念式典がおこなわれました。わたしたちは、この新しい文化ホ-ルができることをひじょうに喜んだわけです。それは、都城市にいろんな文化の拠点ができるということを楽しみにしたからなのですが、いつのまにか「ふたつもホ-ルはいらない」「市民会館はムダな経費を使うからいらないんじゃないか」そんな話がどんどん流れてきました。
そういう風評に対して、わたしたちは、じっさいに市民会館はどんな建物であるのか、いままで都城市の文化のなかで、どういう役割を果たしてきたのか、そういう総括もないままこの市民会館を単純に経費的な面から壊すのは、ほんとはいけないことなんじゃないのか、ということで運動をはじめました。昨年12月に、わたしたちのイベントのなかで、きょうもここに来ておられる、市民会館を設計した菊竹先生の事務所におられた遠藤先生をお呼びして「エネルギ-を内に秘める都城市民会館」という講演会を開きました。約90人の参加をいただき、それをもとに「都城市民会館を考える会」をつくりまして、それが発展して、現在の「都城市民会館を守る会」を結成しております。
5月の連休に署名活動をしまして、市のほうに保存の請願を出しております。当初は、たいへんな批判というか批評というか、「どうせまた変わり者がへんなことをはじめた」とういふうに見られまして、「なぜ、市が決めたことに対して、あなたたちは反対するのか」「おかしいんじゃないのか」などと言われました。すべてお金が掛かるという経費のことが理由です。「経費が掛かるのに、なぜあなたたちは保存を言うのだ」と言われました。しかし、わたしがおもうのは、まだ建てて40年です。たった40年の年齢しかない建物を、新しいものができたからといって簡単に壊していいのか、違う用途にして、残す方法はないものだろうか、そのへんをもういちど、市民とともに考えてもらいたいということで、いま運動をしています。
本日、このシンポジウムの場で、みなさんのいろんなお知恵をお借りして、あたらしい市民会館といますか、市民会館の未来像というものを描いていけたらいいとおもいます。また、昨年のアンケ-トをみましても、潜在的に残して欲しいという気持ちを持っている人たちはいっぱいいます。運動には参加していないけれど「残したい」という人たちを掘り起こしたいという気持ちも持っています。きょうの講演会やシンポジウムを通して、わたしたちの運動がさらに広がっていくように期待します。きょう、話をしてもらいますみなさんが、いろいろな提案なり考え方をお示しくだされば、ひじょうに幸いかとおもいます。
そういうことで、きょうこれだけ多くの方が参加してくださったことを、うれしくおもっています。このシンポジウムが実りのあるものになりますよう、参加されたみなさんが、いろんな意見を出してくださればいいとおもいます。いろんな意見をお聞かせください。
きょうは、参加してくださり、どうもありがとうございます。よろしくお願いします。
1 基調講演
(司会者)
それでは、これより講演会にはいります。基調講演の講師をしていただく鈴木先生、壇上へお願いします。
先生の紹介ですが、時間のつごうもありますので、経歴等は資料をお読みいただきたいとおもいます。鈴木先生は数多くの役職をお持ちで、著書もたくさん執筆されています。また、名誉ある受賞もたくさんされています。
それでは、さっそく、講演をお願いいたします。
(鈴木)
ただいま、ご紹介というか、「紹介を読め」という、おもしろい紹介をいただいた鈴木です。ひとつだけ訂正がありまして、日本建築学会副会長とありますが、これは、はるか昔のことでございまして、元の副会長のひとりということでお願いします。
本日、この都城に声を掛けていただきまして、都城に来ることができましたことを、たいへん感謝しております。わたくしはDOCOMOMO(ドコモモ)という聞き慣れない会をみんなでやっております。DOCOMOMOというのは国際組織であり、パリに本部がありまして、近代建築の保存と記録をしていこうという組織です。そこでわれわれは、日本にある近代建築を発掘する、そして調査をする、それをみなさんと勉強していく。そして、その成果を多くの方におしらせする、そんな仕事をみんなでやっております。そのDOCOMOMOから、この都城市民会館についてのシンポジウムの参加の要請がありまして、わたくしが伺うことになったわけですが、じつは、他の人たちがたいへうらやましがりまして、みんな都城市民会館を詳しく見たいとおもっている人ばかりでした。都城市民会館というのは、できたときから、大げさでなく、ひじょうに注目を集めた建物でして、現在でも建築をやっている人たちのあいだでは、きわめて印象の強い建物です。しかしながら、都城まで来るのは時間的にも経済的にもたいへんでありまして、知ってはいるんだけれども、きちんと見たことがあるという人は意外にすくない。わたくしは、ついいましがた、はじめて内外を拝見させてもらいましたけれども、こういう機会をほんとうにありがたいとおもっております。「都城市民会館をぜひ見てみたいものだ」という人は、ものすごく多いということを最初にお伝えしておきたいとおもいます。
きょうは、なぜこの都城市民会館が「ものすごい」のかという話しをさせていただき、そして、こうした建物をどうやって守っていったらいいのか、それには、どのような事例があるのかということをお話して、次のパネルディスカッションにつなげさせていただければとおもいます。
この都城市民会館というのは、ご承知のとおり菊竹清訓という建築家の代表作でありますけれども、建築の世界のなかで占めている位置につきまして、すこし考えてみたいとおもいます。
菊竹清訓先生は、1928年に福岡県の久留米に生まれました。1928年というのは、建築家のたくさん生まれた年でして、最高裁判所や桜田門の警視庁を設計した岡田新一さん、それから、幕張メッセや慶応大学の藤沢キャンパスを設計した槇文彦さんが1928年生まれです。ついでに言いますと、建築家13年周期説というのがありまして、すぐれた建築家が13年おきに生まれるということを言っている人がおります。1928年に13を足しますと1941年になりますが、この年には安藤忠雄、伊東豊雄、長谷川逸子さんなどの建築家が生まれています。この建築家13年周期説というのを唱えているのは、隈研吾という人ですが、この1941年にさらに13年を足すと、彼が生まれた年になりまして、自分が「あたり年」だということを言いたいために言っているわけでして、たしかに、彼が生まれた年には、他にも大江匡さん、竹山聖さんなど多士済済な人がいます。
菊竹先生の話に戻ります。菊竹先生は早稲田大学を出て、そのあと、竹中工務店、そして森・村野籐吾さんの事務所を経て建築設計事務所を設立されました。菊竹さんのすごいところというのは、やはり、ひじょうに早い時期から、たいへん特徴のある仕事をされてきたところかな、とおもいます。1958年にスカイハウスという自宅を東京の音羽に建てまして、文字どおりスカイハウスという名のとおり、空中に持ち上がったような住宅です。これは、われわれの世代にとりましては、すでに学生のころから名作として知れ渡っておりました。
1960年代というのは、建築家が都市に対するイメ-ジを数多く出した時期ですけれども、そのなかで、菊竹さんの都市イメ-ジは、たいへんに斬新であると同時に他の建築家に大きな刺激をあたえる都市イメ-ジだったとおもいます。
1960年には、日本のモダンデザイン史上、あるいは近代建築史上、たいへん重要な会議となりました、世界デザイン会議が日本で行われました。これの衝撃というのはたいへん大きかったようで、菊竹さん世代、あるいはそれ以上の世代のひとたちが、世界の建築界・デザイン界と直接的に接触をはじめる本格的なスタ-トとなった年であるといえるとおもいます。日本の建築家たちが、いまでこそ、日本の建築家たちは世界で重要な位置を占めていますし、外国人たちも日本にたくさんやってきますし、日本人も外国で多くの仕事をするようになっていますけれども、その出発点のひとつが1960年の世界デザイン会議であったと言っていいとおもいます。
じっさいには、これより10年前の1951年に、CIAM(シアム)という近代建築国際会議が、この年はロンドンで開催されておりまして、敗戦後、はじめて日本が参加したわけです。このときは、丹下健三先生が広島の平和記念公園の計画・いまでは「ピ-スセンタ-」と呼ばれているものですけど、その計画をもって会議に参加し発表しております。したがって、1951年が世界に対する日本の建築家のデビュ-であった。そして、こんどは世界が日本にやってきて世界デザイン会議を京都で行い、本格的な世界の建築界・デザイン界と日本との交流がはじまっていくことになります。この世界デザイン会議を契機としまして、ここで日本の若手の建築家たちが発表するべきである、ということでつくられたのがメタボリズムというグル-プであるわけです。ここには、その後の日本の建築界をリ-ドしていくたくさんの方々が参加します。菊竹清訓さん、槇文彦さん、大高正人さん、若手では黒川紀章さん、それからデザイナ―の粟津潔さん、川添登さんという建築評論家があつまって、メタボリズムという一種の新陳代謝の考え方であたらしい建築運動を起こしていくということになります。
このメタボリズムのなかで、菊竹さんが果たした役割を、これから見ていきたいとおもいます。結論的に言いますと、デザイン力と構想力の両面におきまして、やはり菊竹さんがメタボリズムの中心的な建築家であったといっていいとおもいます。理論的には川添登さん、あるいは浅田孝さんという理論家がいたわけですけど、じっさいのカタチをつくっていく建築家の中心は菊竹さんであった。そして、菊竹さんより若い黒川さんという建築家が、わたしのみるところでは、初期においては、菊竹さんに刺激を受けながら、あたらしいイメ-ジをつくって追いかけていく、というかたちでメタボリズムのイメ-ジが提示されていったという気がします。
理論的なものとして、菊竹さんは「か・かた・かたち」という文章を書いています。「か」というのはひとつの問題意識であり、それを「かた」というタイプとして整理をし、具体的に「かたち」にしていく。それが建築をつくっていくというプロセスである、という説を提唱されたわけです。設計仮設といいますが、どうも、説明の「説」ではなく、工事の足場の仮設の方の字を使うようですが、そういうかたちで設計を説かれた理論家でもあるわけです。
菊竹さんは久留米の出身でありますので、久留米から出た財閥であるブリジストンの石橋家がありますが、そこの仕事をしました。そして、その後、島根で仕事をたくさんします。これは、先ほど遠藤さんから聞いたのですが、久留米の石橋さんが直接、島根の知事をなさった田辺さんに紹介して、田辺さんも菊竹さんを高く評価され、多くの仕事をまかせていく。そして、島根が菊竹さんの活動の舞台のひとつになったようです。
このころ、ひじょうに有名だった建築のコンペに京都国際会議場というのがあります。現在、建っているのは大谷幸男さんという人の設計したものですが、このときの菊竹さんの応募案が、落選したわけですけど強い印象を多くの人に与えました。菊竹さんの「かたち」の強さと凄さというのは、スカイハウスからそうですけど、50年代からすでにはじまっていて、60年代では衆目の一致するところになっていたわけです。そのあと、65年には東光園という島根の旅館を設計します。そして、久留米市には徳雲寺の納骨堂という、コンクリ-トのおもしろい形の小さなものを設計します。60年代を通じて、たいへん注目を浴びた存在になっていったわけです。そして、そのなかで都城の市民会館が設計されました。菊竹さんが勢いをつけていって、そのもっとも勢いが乗っているときにつくられたのがこの建物であるという位置付けになります。そのあと、70年の万博のためにエキスポタワ-という鉄骨でつくったような万博のシンボルタワ-を設計します。そして、海上都市をイメ-ジしていた菊竹さんは、75年にはアクアポリスという海上の構造物を沖縄でつくりました。そのあと、有名なものとしては東京の江戸東京博物館、さいきんでは九州国立博物館が菊竹さんのお仕事でして、現在に至るまで、旺盛な建築活動を続けている建築家であるといえるとおもいます。
また、菊竹事務所からは、ひじょうに多士済済な建築家が出ておりまして、パネリストの遠藤さんもそのひとりですけれど、亡くなりましたが、皇居の建物を設計した内井昭蔵さん、女性の前衛的建築家のパイオニアといっていい長谷川逸子さん、いまや世界でもっとも注目されている建築家のひとりである伊藤豊雄さん、それから、大江匡さんなど、ひじょうに多くの才能が菊竹さんのもとに集まり、花開いていったという意味で、自身がりっぱな建築家であるだけでなく、影響力もたいへん大きな存在である。そんな人物が菊竹清訓さんといえるでしょう。
これがスカイハウスです。西向きの斜面に建っておりまして、そこに四本の柱が家を持ち上げている。屋根がすこしカ-ブを描いておりますけれども、これがこの当時解析が可能になったHPシェルという2次曲面です。これが現状でありまして、お子さんが大きくなりまして増築していますがシルエットはよく残っております。周囲の縁側部分はたいへん開放的にできています。屋根はありますが4隅に柱がないので、たいへん開放感があります。内部はあとで改造されていますが、ひと部屋の大きな部屋になっています。
これが京都の国際会議場のコンペ案でして、軒が次々にせり出していくダイナミックなイメ-ジを提示しております。事務所の入口にころがってますのは、アクアポリスのジョイントの一部です。それぞれの時代の建築表現の先端を切り開き続けている軌跡が感じられます。
メタボリズムといいますのは、1960年に結成されるわけですけど、その考え方をすでに先取りしており、そういう考え方をグル-プとして共有していったのがメタボリズムだといってもいいくらいだとおもいます。メタボリズムのなかで、黒川紀章さんは「ヘリックスシティ」という都市イメ-ジを出します。それから槇文彦さんと大高正人さんは、たしか「ゴルジ体」という名をつけていたものを出しています。メンバ-よりすこし年下で正式なメンバ-ではなく、メタボリズムの周辺にいた磯崎新さんは、こういう空中都市のイメ-ジを出しています。これは未来都市ですけど、実際は日本のお寺の軒をささえている組物をイメ-ジしていまして、具体的には東大寺の南大門の軒の組物のイメ-ジを巨大化して未来都市としたものです。その意味で考えますと、日本的な構造のイメ-ジをベ-スにしていると考えられます。
このメタボリズムグル-プの師匠格に丹下健三さんがいまして、丹下健三さんもこの時期に、「東京計画1960」という東京湾に都市が張り出していくという壮大な計画を立てます。現在は東京のお台場や有明とかの埋め立てがすすんでおりますけれど、丹下さんのこのイメ-ジがすこしづつ海に向かって実現していると言っていいのかもしれません。丹下さん自身、お台場にフジテレビ本社ビルを設計しています。あきらかに「東京計画」をイメ-ジしながら設計したのではないかと推測されます。
このメタボリズムが日本で出てきたころ、イギリスではア-キグラムという前衛グル-プが出てきて、ひじょうに未来的な都市・建築イメ-ジというものを出しています。ア-キグラムとメタボリズムというのはほぼ同時期・同世代で出てきて、そして、相互に影響を与え合っている、そいう関係にあります。これがア-キグラムのイメ-ジで、これが先ほどの菊竹さんのエキスポタワ-ですが、こういうイメ-ジの交流が起きています。それまでは、日本の建築というのは、外国で新しい傾向が出てくる、それを何年か遅れて日本が学ぶ、そういう「追いつけ追い越せ」の時代だったのですが、ア-キグラムとメタボリズムの関係というのは、この時代から相互交流となってくる。まさしく、その中心のひとりとして活躍してきたのが菊竹さんという感じがします。
これが東光園というホテルですけれど、いろいろな要素を菊竹さんはここに取り入れています。
庭は流政之さんがやった、ひじょうに新しい感覚のお庭です。間取りで部屋をつくるのではなく、構造体が立体的に空中に伸びて建築をつくっています。内部には、曲面になった天井が用いられ、菊竹さんのある意味、集大成となっている作品のようでもあります。先ほどの、久留米の納骨堂は、薄いコンクリ-トの屋根が、上から、すっと覆いかぶさっているようで、半分、精密な手品のような建物になっています。
菊竹さんのつくるカタチといいますのは、適当なところで、安心できるところで辞めておくというよりも、極限まで追求する、一種のアクロバット的な美しさを出すのが特徴だとおもいます。これは東京の不忍池のほとりに建っているホテルですけれども、こういう下広がりのようなものがいくつも重なっているホテルです。東京に現れた不思議な未来イメ-ジのように見えます。とくに、ごちゃごちゃとした電線のあいだから見ると、不思議な印象になる建物ですけれども、菊竹さんのもっている造形感覚というのは、やはり、ショッキングなものがあるということを感じさせてくれます。それが、いまだに衰えてないと感じられる作品です。
これは、丹下健三さんの作品で銀座にある静岡放送ビルです。一本の木から枝がいっぱい分かれてできているような建物です。おおきく言えば、丹下さんからメタボリズムの人たちが共有しているような、建築のイメ-ジというのが感じられるとおもいます。そういうひろがりのなかに、都城市民会館は建っているということになります。そして、ここには、菊竹さんのもっている造形感覚、そして、その時期における技術に対する追求というものが極限まで出ている。その意味で、これも一種、マジックのような建物になっているのではないか。これができた1960年代、われわれがいちばん印象に残っているのは、まだ周囲が木造の平屋しかないまちの中に、建物が文字どおり、浮かび上がるように立ち上がっている姿を焼きつけているわけです。他のメタボリストたちもいろいろな仕事をしていますけれど、そのなかで、都城の市民会館は、ひとつの極限的な仕事になっているのではないか、という気がします。目で見て、建物をつくっていく考え方がわかるような感じになっているわけです。それぞれのこういうフレ-ムがとめられていき、扇のように広がって、ここで支えていくという、存在感の強さがある。これは、日本の建築のなかで、ほとんど類を見ないといってもいいとおもいます。先ほどの話で、都城にはあたらしい文化会館がつくられたということですが、新しい文化会館ができたということと、都城市民会館が不要になることとは、ぜんぜん話の違うものです。ぜひとも、これは今後とも末永く活用されるべきではないかと考えます。
都城市民会館の位置付けについては、わたくしなりに整理をすれば、以上のようなことになるわけですが、では、こういう建物をどういうふうに考えたらいいのか、どういうふうに活用し、あるいは使い続けていくことができるのか、後半、すこしかんがえてみたいとおもいます。
まず、復習のようになりますが、都城市民会館というのは、日本が世界の現代建築に影響を与えるようになった時代の代表作である。つまり、世界の潮流を伝える作品というより、世界に影響をあたえる作品という位置付けができるとおもいます。そして、日本のそういう時期においても、もっとも代表的な位置を占める作品であとおもいます。1950年代から60年代にかけての建築というのは、ちょうどいま40年から50年の時を経て、あきらかに古くなってきている時期にさしかかっていますが、日本が世界に伍して、あるいは世界をリ-ドして、それまで世界から影響を受けていたのが、世界に影響を与えるようになった時期を代表する建物であるということの意味を忘れてはいけないとおもいます。
ちょうど、メタボリズムとア-キグラムの関係というのが、相互関係をもったというように申し上げましたけれども、ちょうどそのころ、丹下健三さんとエ-ロ・サ-リネンという北欧系のアメリカの建築家が、やはり、次はサ-リネンは何をやるか、あるいは丹下は次は何をやるか、というかたちで切磋託麻したという話がありますが、丹下さんの世代も、メタボリズムの世代も、そういうかたちで世界と関係を持ち続けていく。そのなかにあって、都城市民会館はユニ-クな位置を占めている作品だという気がします。このカタチについても、いろいろな人がいろいろなことを言っていますが、アルマジロみたいだ、ヤマアラシみたいだ、又は、人力車のフ-ドみたいだと。これは、建築がイマジネ-ションを喚起する力のおもしろさだとおもいます。それで思い出しますのが、ある意味では菊竹さんと対称的ともいえる槇文彦さんの、70年代以降、いくつかの大きな建物をつくるようになった、いちばん有名なものとしては幕張メッセという日本一の会場をつくっていますけれど、その槇先生が「茶釜みたいなイメ-ジだとか、兜のように見えるとか、いろんな人がいろんなことを言う。それがおもしろいんだよね」と言っています。
やはり、メタボリストの世代の人たちが、カタチに込める想いは、たいへんに豊かなものがある。いまの建築というのはカタチに意味をこめるということはしない。説明をするとすれば、もっとも経済的に合理性があるということでしかカタチを説明しようとはしない。カタチに意味を与えるとすると、取り付けた看板みたいなもので、意味だけを貼り付けるということが多いのですけれど、都城の建物は、ひとつのメッセ-ジを発する建物になっている。それは、単に安く、あるいは速く、安全にということで決まるカタチではない。それがもっているメッセ-ジの力というのは、決して無視してはいけないものですし、現在の建築家が、ともすれば自分の思いを伝える力を失っているのではないか、そう感じさせるくらいのメッセ-ジの力をもっているような気がします。こういうものをぜひ、残していかなければいけないとおもいます。
戦後の建物をどういうふうに扱ってきたか。むろん、50年代、60年代の建物というのは、建て替え時期にあるというのは否定できない事実です。けれども、戦後の建物をさまざまなカタチで継承していく。あるいは、あたらしい用途を見つけていく。あるいは、あたらしくいろいろな手を加えていくという試みも増えていく、そういう時期でもあるだろうとおもいます。いくつか例をあげますと、1950年代の建物としては、前川國男さんの設計した神奈川県立音楽堂という建物があります。これは、横浜市の野毛というところにあります。横浜市には、この音楽堂をつくってからしばらくして、県の芸術センタ―ができました。そこで、音楽堂の方は、もう古いし、今のホ-ルの水準から比べると劣るので、これは整理して壊してしまおうということになりました。かれこれ10年くらい前のことになりますが、そのときにも、こういうシンポジウムが開かれまして、わたくしも呼ばれて行きました。そこで、「なぜ新しいいいものができたら、古いものは壊してしまわなければならないのか、そこで行われた文化活動の層の厚さを、次の時代に伝えていく、それが都市の文化ではないのか」ということをワアワア申し上げ、それ以来、どうも神奈川県のブラックリストにわたくしが載ってしまったようで、ほとんど声がかからなくなってしまいましたが、結局、神奈川県立音楽堂は壊してはまずい、となったようで、現在でも使われています。ただ、大規模な改修をしますとお金がかかりますので、なるべく、いまのカタチで使おうということになりました。もちろん、オペラとかフルオ-ケストラを入れるにはすこし手狭である。だから、このホ-ルにふさわしい活動の場として使いましょうということになりました。神奈川県で、ホ-ル系の建物の全般的な見なおしを数年前に行ったときも、この50年代の音楽堂は、当面そのまま使いつづけようという位置付けになっております。
他の、戦後の例としては、先ほど申しました、丹下さんが戦後はじめて世界に発表した広島のピ-スセンタ-が戦後の建物として、はじめて重要文化財になったというのはご承知のとおりだとおもいます。すでに戦後の建築であっても、重要文化財の範疇に入ってきている。広島の原爆ド-ムといっしょに、この一帯は、未来にわたって都市の文化的中心として、あるいは都市の記憶として残していこうという意志がはっきりと示された事例になりました。
それ以外のものとしては、東京の鳥居坂というところに、国際文化会館という建築があります。これも50年代のものでして、岩崎小弥太という三菱財閥の最後の総帥だった人の屋敷跡に立てられた建物ですけれど、菊竹さんよりひと世代上の、吉村順三、坂倉準三と前川國男さんという戦後を代表する3人の建築家が共同で設計した近代建築です。老朽化し、採算性が取れないということで、取り壊しという話になりました。このときには、日本の戦後の近代建築を切り開いた3人の建築家の共同作品であること、そして、名だたる国際交流上有名な人たちが集まった場所であるということ、現在でも国際的な文化交流の中心であるということで、ぜひとも存続してほしいという意見を出しました。その結果、理事長が「お金がないから土地の一部を売るけれども、建物自体は残そう」という決断をしてくださいました。もちろん、ある程度、今の要素を入れなければならないので、あたらしい会議室を設け、入口廻りを広げようということで工事をしました。もうひとつ、耐震上問題があるので耐震補強をすることになりました。その工事ができあがりまして、ことしの4月に一部オ-プン、7月に全体のオ-プンにこぎつけ、それと同時に、この建物のきちんとした位置付けもなされたことになりました。
さらに、こうした例をあげますと、60年代になって東京の上野に国立西洋美術館がつくられ、これは、フランスのル・コルビュジェという建築家が設計した建物であります。コルビュジェというのは、世界的に有名な近代建築家ですが、彼の作品は、インドより東では上野の西洋美術館しかない。それ以外ですと、あとはアメリカにひとつしかなく、ヨ-ロッパ中心にしか建物はありません。この西洋美術館につきましても阪神淡路大震災のときに問題になりまして、それは、この美術館が安全上問題があるということです。コルビュジェという建築家はピロティという手法をよく使いますが、それはどういうものかというと、柱だけで建物を支え、建物を浮かしてしまうものです。それでは非常に弱い・耐震補強をしろ、ということになりまして、なぜなら、美術館というのはお宝が入っている建物ですので、病院なみに安全基準の高い建物です。だから、補強をしようということになったのですが、最初の補強案というのは、強くするために壁をたくさん入れるということで、コルビュジェの建物に壁をいっぱいいれる、あるいは柱が細いので太く補強するという案が出てきました。これは「とんでもない」ということになりまして、検討委員会をつくりました。そして、なんとか安全性を保って、そして建物の姿を損ねない方法はないかということになり、免振という方法が出てきました。そのときは、既存の建物を免振化するという事例がありませんで、そんなことをするとお金がものすごくかかる、そんな予算はみていないということでしたが、みんなが強硬に意見を出すことにより、西洋美術館はレトロフィットという既存の建物の免振化という方法で、カタチをそこねずに安全性を確保するということが可能になりました。
いったん、免振化が実施されますと、それ以降は、免振化して安全性を確保することが、しばしば行われるようになりました。西洋美術館の保存のあと、こんどは、首相官邸をあたらしくつくることになりまして、これもおなじように、あたらしい首相官邸ができたので、古い方は壊そうかということになったんですけれど、「新しいものができたから古いものを壊すのはもってのほかだ」ということで、首相公邸として活用しましょうということになり、古い建物は免振化して安全性を確保することは、あたりまえのようになりました。ということで、昔の首相官邸は、現在、小泉さんが寝ている部屋になったわけです。
それ以外でも、大阪の中央公会堂とか、歴史的な建物を残していく場合には、免新工法がひとつの選択肢として確立してきました。国際文化会館の場合には、下の基礎があまりに立派すぎるので、耐震補強の方がいいということに落ち着きました。つまり、技術的な解決法というのは、いまの技術が絶対的に優れていますので、要求水準がはっきりしていれば、技術はついてくるというのがわたしの考え方です。どのようなカタチを必要とするのか、どのようか形が望ましいのか、ということをはっきり示唆しておけば、それを可能にする方法はかならずついてきます。すでに、おおくの戦後の建物が、さまざまなカタチで手を加えることによって、生き続けられるようになっています。
いま、わたしが考えまして、いちばんあたらしい建物で保存になったものとして、大分市の元の大分県立図書館という磯崎新さんの初期の作品があります。この場合にも、新しい県立図書館が建てられ、それも磯崎さんが設計した建物でして、あたらしい図書館ができて、もう用済みなので取り壊そうという話が出てきました。この場合には、もとの建物も新しい建物も磯崎さんの設計であり、磯崎さんとしては「古いものはいらない」と言われると、立場上「残そう」とは言いにくかったようですが、いろいろな人が建物のよさを訴えることによって、この場合には図書館から建築の資料館へと役割を変更して残されることになりました。おそらく、今後も残っていくだろうとおもいます。
そういうことを考えますと、近代建築というものも、建て替え時期に入ってきていて、その将来を真剣に考えなければいけないという時期にさしかかっているといえます。そのときに必要なのは、やはり、建物の価値を訴えるということですが、ただ、建物の価値というのは、だれかがお墨付きを与えるものではなく、「わたしがいいとおもう」というのがいちばんだいじな価値でして、みんながそれを発見していくというのがだいじなことです。建物の価値には、建築的な価値、都城の場合にはとうぜんそれが入ってきますけれども、それと、歴史の舞台としての文化的な価値というのがあります。その例として記憶にありますのは、東京に東京芸術大学がありまして、そこに音楽堂・木造の奏楽堂があります。木造ですので、すぐとなりの上野公園に移築され現在でもホ-ルとして使われています。この奏楽堂は、日本でいちばん多くの曲目が本邦初演ということで紹介された場所であるということを音楽家たちが主張しました。日本の西洋音楽の歴史をみてきた建物であるという文化的な価値を説かれ、それもあって現在でも使われています。
そうした、価値を訴える、価値を発見するということ、そして、もうひとつは、どういうふうに使い続けていくかということを考えることがだいじになります。むろん、いまのカタチで使い続ける、その場合に必要なものは何かということで、例えばトイレをきれいにしましょうとか、どこかを貼り替えましょう、ということもあるかもしれません。本質を損ねずに、使い続けるためには何が必要かということになります。あるいは、別の使い方をすることによって、次の時代に残していこうという判断もあるかもしれません。価値と使い方、その両輪があって、建物というのは次の世代に伝えられていくものかもしれません。
都城であたらしい文化会館ができて、古い方を壊すというのは、たとえば「むすこがお嫁さんをもらって、もうおばあさんはいらない」という話に近いのであって、こんなひどい話はありません。あたらしい会館ができたことはすごくうれしいことであり、一方、古い会館が残されることで、都城の文化は厚みを増していくだろう。これが、これからの都市のあり方だとおもいます。わたくしは、都城の建物を拝見できたことをうれしくおもっていますし、この機会を与えてくださったことに感謝しております。見たいとおもっている人は、全国に、あるいは世界にものすごくたくさんいるわけで、都城の人はこれを壊してしまっては「恨みを買いますよ」というのは脅しになりますが、やはり、よくよく考えていただきたい。それを考える人がこれだけいるということは、すばらしいことだと考えます。
いちおう、わたしの話はこれで終わりにしたいとおもいます。どうも、ありがとうございました。(拍手)
(司会者)
では、ここで三田代表よりお礼の言葉を述べさせていただきます。
(三田)
鈴木先生、ありがというございました。わたしたちが地元にいるだけでは聞けない、専門家からみた市民会館の貴重な話を聞かせていただき、ありがとうございました。市民会館の形と姿は知っていましたけれど、保存運動をはじめてから、これが菊竹先生の作品であるとか、どういうものであるかということを、一夜漬けのように勉強してきましたが、それだけでは伝わらないものがありました。この建物自体が世界に誇る建物であり、都城のまちの歴史であるとか、文化の歴史であるとか、そういうものを積み重ねた市民会館であるということを、これから多くの市民に訴えて保存運動をするべきだと教えられたようにおもいます。これからも保存のためにがんばっていきたいとおもいます。
きょうはほんとうにありがとうございました。
(司会者)
いま一度、鈴木先生に盛大な拍手をお願いします(拍手)
ここで、次のパネルディスカッションの準備がありますので、15分間ほど休憩し午後6時から再開したいとおもいます。
2 パネルディスカッション
(司会者)
ただいまより、第2部のパネルディスカッションを開会します。まず、5名のパネラ-を紹介します。
白水真由美(しらみず・まゆみ)さん。ア-トでまちを楽しくしたい企画集団・MAPの会員であり、都城市民・主婦です。
宮原昭子(みやはら・あきこ)さん。都城文化協会の副会長をつとめています。都城市民・主婦です。
遠藤勝勧(えんどう・しょうかん)さん。遠藤勝勧建築設計室、元菊竹清訓建築設計事務所員であり、都城市民会館の設計・監理、あとのメンテナンスに深く関わっています。
多田善昭(ただ・よしあき)さん。多田善昭建築設計事務所、日本建築学会・元四国支部長です。
鈴木博之(すずき・ひろゆき)さん。先ほど基調講演をしていただきました。
コ-ディネ-タ-は岩切平(いわきり・たいら)さん。岩切平建築研究室、宮崎の建築のグル-プ「竹の会」の代表でもあります。
それでは、マイクを岩切さんにバトンタッチしますので、よろしくお願いします。
(岩切)
岩切です。よろしくお願いします。
前半で鈴木先生から、菊竹清訓さんの人と作品、そして歴史的な位置付けの話がありました。わたしは、1960年代のメタボリズム全盛のころに大学に入りまして、菊竹さんは、学生時代に盛んに議論の対象とした建築家でありました。わたし自身、宮崎の出身ですから、宮崎にそんな建築があるのかという学生時代のおもいでもあります。当時は、まだ若かったので、なかなかその良さがわからない・理解できないところもあったのですが、きょう久しぶりに、遠藤さんの案内で見学させてもらいまして、なかなかたいへんな建物だな、という印象を深くしました。
ひとつは、学生時代のロマン大きい時代の建築感とは違い、なにかの物語性を強く感じることができました。こういう建築というのは、これからもだいじに使っていかなくてはいけないんじゃないかと、そういう方向に議論がもっていけたらいいなという期待感があります。
では最初に、四国は香川県から来ていただいた多田さんに、先ほど話が出ました丹下さんの建物も紹介してもらいながら、ひとむかし前に建った近代建築の再生活用という内容で話をお願いしたいとおもいます。
(多田)
多田です。香川県からもってきた資料を見てもらいながら、話をさせてもらいます。わたしは、建物の保存運動家ではなくて、歴史家でもありませんが、さいきんは、いろんなところに出かけています。本業は建築をつくる方なので、壊すということに、ものすごく反発をしている人間です。きょうは、とにかく「再生できる」というテ-マをいただきましたので、そのお役に立てればということで資料を持ってきました。
これは香川県庁舎です。じつは、壊される可能性もあったんですけど、きちんと使おうということになり再生をしました。じつは、この設計者というのは、丹下さんはもちろんなんですが、この当時の建築知事の金子さんなんです。ものすごい勢いで、いいものを創ろうと動かれました。猪熊弦一郎さんも存在していて、建物のなかに、いろんな人が協力していて、ひじょうに美しく、また、物語みたいなものを多くの人たちに伝えられる建築だとおもいます。この庭は、工事中にいったん埋められたのですが、もういちど再生し復元しました。海外から建築家が見学に来ますと、わたしが案内するのですが、「あたらしい県庁舎も見ますか」と県の職員はすすめるのですが、みんな「いやだ」と言って見ません。
よく使うということ、現実に利用ができるということ、その人びとが県庁をとおして出会いができるということを、いまも、はっきりと証明しております。ましてや、どんどん手狭になっていましたのが、うしろに新しい庁舎ができましたので、元の空間にもどりました。密度も減らして県庁舎として再利用・再生できました。8階には建築課が入っていまして、建築関係の部署がほとんどこの建物を利用している。ゆえに、この建物を大切に使っているということにもつながっています。
公衆ロビ-です。いまも開放されていまして、ここで勝手にご飯を食べてもかまわない。話をしていてもいい。この赤い扉の向こうに大会議室がありまして、現在も使っておりますし、ひじょうに音のいい環境を整えています。極力元に戻しました。鈴木先生も大喜びだとおもいますが、もし、この県庁舎が使われないんだったら、日本建築学会あげて、日本の建築会館にしてしまおう、ということも支部長時代にお願いしたりしました。
これが内部ですけれど、元に戻りましたから、天井もよく見えるようになりました。コンクリ-トの中性化があって、コンクリ-トの打ち放しの部分が多少、色あいが変わってきましたが、それはがまんしなければとおもっています。屋上には喫茶店があったり、多くの人が集っていたのですけど、いまでも職員が体操をしていたり、座ってお茶を飲んだりという風景は存在しています。もともと、再生というか、守ってきておりましたのでうまく、きれいに使われております。香川県には、そうとうの有名な建築がありまして、大江さんの文化会館は、完全に耐震補強をしましたので、これは残ります。
わたしもひとつ、復活運動をしたことがありまして、これは大正時代・1911年の劇場です。結局、このときは、建築関係者がいっしょうけんめいがんばりましたが、こんな古びた「世界館」という劇場で見るより、よっぽど市民会館で見たほうがいい、という人たちの意向が強くて、残すことはできませんでした。
これは大成功した例です。以前は、利用者、活用する人はだれだということで失敗しましたので、こんどは、それに重点をおきまして、これは重要文化財にすることもできたので、俗にいうお墨付きをいただいた建物なんですけど、旧陸軍の偕行社(カイコウシャ)という旧将校用のクラブです。現在、解体修理がすすんでおりまして、来年・19年度中には完成しますが、ダンスをしたりとか、演奏をしたりとか、ご飯を食べたりとか、そういう空間に使われていました。これを重要文化財にするときに、とにかく、いままで100年使ってきたので、あと100年使おうということで検討にかかりました。
きちんとした検討委員会を立ち上げるべきだろうとおもい、当時の建築学会の会長でした岡田さん、鈴木先生、元文化庁の方、そして香川大学も引っ張り込み、あとの運営を考えて、地元のまちづくり会社にも入ってもらいました。これをキ-の検討委員会にしまして、現実には7つの分科会で調査をしていく。これは地元の建築学会を軸にして応援をしました。とにかく、やることを明確に決めようということで、建築的なもの、利用するためにどうするんだいうことが大きいんですけど、委員会の課題を勝手に決めました。木造ですけど、耐震上のことを考えよう、100年もたせようということを明確に決めました。だれがどのように利・活用するのかということを決め、価値と使い方を両方同時進行させようというのが、これが成功したポジションだろうとおもいます。
解体修理をする前に、外部もだいじですから、建物を客席にして、庭園を舞台にする使い方を見せました。とうぜん、アンケ-トも取りまして、みなさんの要望も聞きながらやっています。日本うどん学会の第1回大会もやりました。音響とかそういうもののバックデ-タも取ろうということになり、けして環境はよくないんですけど、よくないということもきちんと知ってもらおうということも含め、話をしました。現実、話し言葉はたいへん聞き取りにくくて、それはスピ-カ-増やすという手法を取りました。うどん・そばもだいじですということで、付属棟を建て、そちらの方にもっていきますという話もしました。いちばん可能性がある、とおもいましたのは、基本的にマイク・スピ-カ-を使わない、小さなコンサ-トです。これができれば結婚式もできる、小さなバンドも来てもらえることになります。
音圧測定などのバックデ-タを取りながら、それも、市民にきちんと見せながらやっています。建物だけではなく、周辺の整備を訴えるために、聞いている人に庭に出てもらいまして、演奏を聞いてもらいました。そうすると「文化財を見ながらお茶を飲みたいね」という意見も出てきました。それと、宴会もぜひ、やっていただきたい。これは改修にお金が掛かっていますので、空調費なんかを儲けなくてはいけない。収益をあげるために、付属棟もいりますよということで、ちゃんとお金を出して、いい付属棟をつくりましょうという話をして、実施設計も終わろうとしています。だいたい、おもいの80%くらいは進んでいるとおもいます。
もうひとつは、できるだけ次の世代の子どもたちも引っ張り込もうということで、建物を体験させ、建物の説明をして、興味を示してもらいます。「全部建物を見せてよ」ということになり、改修前に見ていただくということもやりました。利用実験はぜんぶで7つやりました。できるだけ地元にいるメンバ-がアンケ-トは書いてもらうんですけど、聞き取り調査を実施して生の声をできるだけ聞こうということを考えました。地元の建築学会は全面的に協力をして、本部の日本建築学会にも手伝ってもらいました。
基本的にきょうの話は、ぼくは保存より活用の方がいいんだろうとおもいますが、どっちにしても、ピラミッドを築き上げるようなものだろうとおもいます。底辺が広くないといいものはつくれない。そのために、多くの人たちが多くの知恵を積み上げて、急げばこわれやすくなりますので、そうせずに、文化として、きちんと存在し続けて欲しい。そういうことが可能かなとおもいまして、きょうは出てまいりました。そんなことで、いちおうこれを前段の説明にしたいとおもいます。
(岩切)
先ほど講演を終えられたばかりですが、鈴木先生から、もうひとことありましたらお願いします。
(鈴木)
先ほど、遠藤さんの説明で市民会館を拝見しまして、そのときに、高校のブラスバンドの人たちが練習していました。ちょうど、R・シュトラウスの「愉快ないたずら」というのを練習していまして、その熱心に練習しているのを聞いて「ア-いいな」と心からおもいました。ホ-ル自体、けしていま風の豪華なふかふかのカ-ペットが敷いてあるわけではなく、逆に、建物の形が内からも外からも感じられますし、床なんかは、粗末なんですけど、なんか若々しい発表の場、練習の場というものが感じられて、すごくうらやましい気がしました。
ときに、近代建築とか、たとえばメタボリズムについて、メタボリズムの建築理論というのは新陳代謝だから、どんどん建て替えていくということを主張する、近代建築は機能主義なんだから、機能が時代遅れになったら、消えていくのが運命なんだ、という人がいます。しかし、けしてそうではなくて、メタボリズムというのは、たしかに建物のサイクルにはいろんなサイクルがある。たとえば、われわれだって年に数回、散発に行くとか、毎日歯を磨くとか顔を洗うとか、いろんなサイクルで生体は維持されているということであるとおもいますし、もしそのサイクルが時代に合わないとしても、建築のもっている意味というのは、そういう理念で建物をつくった結晶がここにあるということの意味は、たいへん大きいわけです。機能主義の建築が、いまは使われなくなった機能のためにつぶせ、といことではなく、そういう考えでつくられた建物があること自体が歴史であって、みだりに、それをいまの価値観で過去も未来も判断すべきではない。過去の判断を尊重し、未来に対しても可能性を残す、それが文化だろうという気がします。
都城市民会館というのは、そういう意味で、ひとつの時代の考え方が、あれほど濃密に具体的なカタチをとったという例はすくないのではないか、それがこのまちにあることの意味はひじょうに大きいとおもいます。
いまもいろんな建物が危機に瀕しておりまして、いちばんの問題は、東京駅前に東京中央郵便局というものがあります。これは、近代建築のはじめでありますので、いま見ますと、ごく普通の四角いビルにしか見えない、どこが魅力的なのか、みんなで勉強会をやったり発表したりしています。それから、愛媛県の八幡浜に日土(ひづち)小学校という木造のシンプルだけれどもおもしろい学校があります。危ないし、時代遅れだし、建て替えたいという話があったときに、これがなぜ、ある時代の教育に対する考え方、あるいは建築と周囲の環境に対する考え方を示しているのだろうかということを考え、それを訴えることで、いまのところその建物については、学校として使いつづける方向に話がすすんでいます。建物について、ある時代のものだからもういまの時代とは違うというのではなく、ある時代の結晶だからこそ、それは尊重しなければいけないし、未来にも託していくべきだと考えます。使い方は、いまの要求をぜんぶ盛り込むのは無理であり、どういう使い方がその建物の魅力を引き出せるだろうか、ある程度手を入れながら魅力を引き出していく、その魅力に満ちていること、それを訴えていただきたいとおもいます。
(岩切)
多田さんから、先ほど香川県のいろんな事例を紹介してもらいましたけれど、きょう、久しぶりに市民会館を見学して、遠藤さんからいろいろ説明も聞いたとおもいますが、なにか提案したいことがありましたら。
(多田)
設計者のひとりの遠藤さんから説明を受けて見ることができ、鈴木先生とも感動していたのですけど、外と中の壁がひじょうにうまくつくってあるなと、内部にちょっと傾いているのが、注意力が散漫にならずに、ちゃんとステ-ジを見ておきなさいと言われているような気がしました。舞台にいたこどもたちに声を掛けて、聞いてみたのですけど、やはり、建物に対する愛着を持っているんですよね。そういう声をきちんと引っ張り出してあげるといいとおもいますね。
あの建物、ぼくからみると、直すのにそんな手間の掛かるたいへんなものではないなとおもいます。そんなにお金もたいした金額はかからないとおもいます。あれを壊してなにかに建て替えるのではなくて、雨漏りの問題はあるのかもしれませんが、屋根だけなおせばという気もするし、ぜいたくではないんですけど、コンクリ-トにモルタルを塗ったところにイスがあり、その素朴さを子どもたちも感じていて、ふかふかのじゅうたんだけが、けしていいものじゃないことをわかってくれている。これを伝えることがだいじだとおもうんであって、基本的に建物を建てるときの設計者のおもい、発注者側にもとうぜんあるとおもいますが、そういうおもいを語っていただいて、それを多くの人が共有できれば、それ以上に、そのおもいというのは、その当時の人たちも強いとおもうので、それを聞いてみたいとおもいます。
(岩切)
それでは、菊竹事務所におられた遠藤さんに聞きます。
(遠藤)
遠藤です。この建物は、お金のことを言っては申しわけないんですけど、当時、建築にかかったお金は、音響も、舞台や客席のイスもいれて、全部で1憶5千万円なんですね。当時の蒲生市長(都城)さんがわたしたちの事務所に来て打ち合わせをしたとき、わたしも菊竹と同席していましたが、蒲生さんが言うには、都城には国鉄の機関区というのがありまして、組合の大会が年に2回あるんですと。それに集まる人が1回1500人くらいなんで、雨が降るとどうにもならない。この労働組合の大会を受ければ、すこしは市にお金がはいるだろうと、1500人が雨に濡れない屋根をつくってください、というのがはじまりでした。その当時、こういう会館をつくりますと、1脚あたり、26万円かかったんですね。都城の予算を計算しますと、1脚あたり12万円なんです。それで、どうしたらいいかということを考えまして、まず、市長さんと相談したのが屋根です。ほんとは壁もいらないといわれたんですけど、注文のいちばんは、雨は絶対に漏らさないという条件だったんですね。それに対して、壁もないというのはおかしい、ということで、わたしたちは市長さんに、まず、構造をつくりましょう、構造をつくって、屋根と壁があれば人は集まれますと。
また、組合の大会だけでなく、音楽もだいじですので、建物のボリュ-ムが音楽的にもたいせつではないかということで、当時のNHKの技術研究所に設計をたのみました。所長の永田さん(現在の永田音響設計事務所の創設者・永田穂さん、霧島のみやまコンセ-ルも担当)という人が、すごく興味を示しまして、空間のボリュ-ムを出してくれたわけです。ふつうは、天井で空間ボリュ-ムを決めるんですけど、天井の中に梁を入れますと、建物が大きくなります。それで、梁を外に出して、必要なだけの空間ボリュ-ムを取ったわけです。そういうわけで、これは構造だけ、壁だけなんです。市長と相談しまして、仕上げはどうしましょうか、と聞いたら、わたしが市長であるかぎり、1年間に1500万円出しましょう。これを3年間続けます。そのあいだにきちんとした建物にしてもらえばけっこうです。そして、その当時、日本で最先端の材料がアルミでした。それで、この外壁も屋根も内部の壁も全部アルミでつくる予定だったんです。そのひとつがアルミの緞帳です。
(1966年)4月の1日に開館式がありまして、わたしと菊竹が来ました。市長さんにもすごく喜んでもらいましたが、1週間後の市長選で市長が落選したんです。それで、仕上げをするお金が入らなくなりました。そして、その6ヶ月後、歴史はじまって以来の豪雨がありまして、それで不幸にして屋根が一部漏ったんです。その屋根も、市長が言うには、都城には都城工業高校がある。ところが、都城の人たちはなかなか外に出られない。いまみたいに高速道路がなかったんです。建築の勉強をしたくてもできないから、この建築を生きた教材にしてください、と言われました。それで、工事を請け負った鹿島建設の櫛田(クシダ)さんという所長が、その言葉に感動して、夏休みに学生さんになにかやってもらおうということになり、いまみみたいに、安全とかはそんなに難しくなかったものですから、夏休みに高校生を屋根に乗せて、屋根を葺いたんです。屋根の鉄板は、さいしょは0.3ミリだったんですけと、その話を聞いた八幡製鉄が0.5ミリに替えて支給してくれました。そのために、やっとこみたいな道具で、スタンディングシ-ムといって、骨がなくて、鉄板どうしを折り曲げて屋根をつくる、それが可能になりました。屋根のいちばん上の平らなところで学生さんに締めてもらいました。難しい危険な下のところは鹿島建設が施工しました。その大雨のとき、いちばん安全な上の方が漏ったんです。高校生の力が足りなかったわけですが、それはみなさんには言えませんでした。それと、いまみたいにシ-ルがなかったんですね。いまではガラスでもなんでもシ-ルでふさぐんですけど、その当時、担当した方があわててコ-ルタ-ルを流してしまったんです。コ-ルタ-ルは熱を与えている間は液体ですけど、熱がなくなると固形になります。それで締められなくなっちゃいました。なかに固いものが入っているわけですから。それで、ずっと苦労して、だましだましやっていたようなものです。さいしょの、都城市民会館のはじまりはそういうことだったんです。
設計の話になりますけど、都城はお金がなくて設計料が払えませんので、設計は菊竹さんでやってください、そのかわり設計監理は都城でやりましょうということになりました。それで、都城市の職員が一生懸命勉強していまの建物ができたんですね。ぼくらは、難しいところを、1ヶ月に何回か来て、お手伝いしたわけです。でも、いまみても、あんな立派なコンクリ-トを打っているのは、日本全国でもそんなにないです。クラックというヒビがないです。ふつうの建物は全部ヒビが入っています。でも、あの建物にはありません。それだけ、凄い建物だとおもっています。
以上です
(岩切)
聞けば聞くほど物語性がありますし、ほんとにすごいロ-コストのなかで苦労されたようです。そのロ-コストの最たるものが、この外側に出てきた鉄骨の梁だとおもいますが、これなんかは、わたしは宮崎出身ですから、1週間ほど前、日南海岸をドライブしましたが、なんとなく「鬼の洗濯岩」のような印象を受けました。ようするに、そういう物語性のなかから生まれたデザインが、大きな魅力になっているという気がします。
鈴木先生の方からなにか遠藤さんに質問はありませんか。
(鈴木)
先ほどはじめて見て、きれいなコンクリ-トだなとおもっていたのですが、やっぱりこの時代のコンクリ-トはすごく密実でいいですよね。ただ、お金がなくて内外装をアルミで覆う予定だったのが、なくなったのは、逆によかったんじゃないかとおもいますね。
(遠藤)
まったく、そのとおりなんです。経済的にどうこうじゃなくて、別のことをやっていたら、ああいう建物では残ってなかったとおもいます。建物がうまれたままのカタチで、みなさんに見ていただける。都城にいる方は、つねに見ていますからそう感じませんが、はじめて見た方は、その近代建築のつくり方の凄さですね、それを身に沁みて感じることができます。これからの建築を、いまはみんな飾りのほうから入っていきますが、美しい女性の方が好きだとか、タレントさんが好きだ、そんなことを考えながら建築をつくっちゃうんですけど、ほんとに、その建物を使って、そこで文化が育っていくという建物をつくろうとする人たちが少なくなっている。これからまた、20年、30年経ったら都城と同じような考えでつくりだす建築が出てくるとおもいます。
それと、コンクリ-トを打つためには、コンクリ-トを打つ管理がたいへんなんです。コンクリ-トは少しづつしか打てませんので、それをここは何時に打つ、ここは何時にという打設計画書がいるんです。それを、都城の建築課のひとが考え、鹿島さんと相談しながら打ったんです。そのときはポンプ車がありませんから、ネコ車という1輪車にコンクリ-トを入れて、板で打っていきます。ですから、バケツ3杯くらいのコクリ-トを積み重ねて、あれだけの建物をつくりました。いまみたいに、水みたいなコンクリ-トをポンプで上げて、というつくりかたではありませんので、そういう苦労もいっぱいあって、もう40年経ちましたけど、10年先、20年先という希望があったんですね。希望の中からあの建物が生まれたというか、ひとつのエネルギ-だったんだなという気がします。
(岩切)
これまでは、こちらの4人の建築家たちで話をしてきましたけれど、次は、都城の市民であり、また文化団体の一員としての宮原さんに、いままでわたしたちたちがはなしてきた内容から、なにか拾えるもがあるとか、自分はこんなふうにしたいんだ、というおもいとか、そのへんのところを話していただけますか。
(宮原)
専門家の先生たちから、建築学的なすばらしさをお聞きしながら、ちょっと感じたんですけど、この市民会館を、ふだんは何気なく見て通りすぎていたんですけど、ふと、これがもしなくなったらどうなるんだろう、むなしいな、さびしいなとおもいながら聞いていました。
わたしたちは利用者側として、ぜひいまの市民会館をホ-ルを使える状態で残していけたらなと考えているんです。こんど、市が合併しまして、都城文化協会も旧4町の文化団体と合併することになりまして、今月末に発足式をする予定です。そうなりますと、いま都城で90団体、旧4町で130団体、合わせると、220から230団体のおおきな規模の協会になります。そうなった場合、あたらしい、音響のいいすばらしいホ-ルができまして、わたしたちは音楽関係者として、そのことを喜んでおりますが、だからといって、市民会館を壊すのは解せないというおもいがありまして、こちらはこちらで、いまの状態でも利用できる公演とか団体とかありますので、ぜひ、残して欲しいとおもいます。ふつう、行事というのは日程が土日や祝日に重なります。そういう意味でも市民会館とあたらしいホ-ルと両方ありましたら、団体が増えましたが、申し込むときも苦労せずにすみます。いままでは苦労してきましたので、1400人規模のホ-ルがふたつは必要だと考えています。
(岩切)
宮原さんは、これまでの専門家の話を聞いて、なにか質問がありませんか。
(宮原)
先ほどから、会館の音がすばらしいとか、意見が出ているのですけど、わたしたちは、音のことに苦労してきたんです。とくに合唱をする場合は、いままではベニヤの反響版を組みたててもらっていたんです。そのつど、組立と解体に時間がかかる。横とうしろと天井、それがなければ音が全部吸い込まれてしまいますし、客席の方も前と中と後ろとで音の響きが違うんです。それで、長年、市のほうに苦情を申し上げてきたのですけれど、また、違う観点での音のよさなのでしょうか。
(岩切)
NHKの技術者が音響に参加していたということですけど。
(宮原)
音関係の方は、これからは新しいホ-ルをせいいっぱい利用させていただきますし、市民会館の方は、こちらはこちらで、講演とか小中学生の公演とか、利用価値はいっぱいあります。料金的にも新しい方は厳しいですし、かちあわないように、両方利用できるように。わたしの希望としては、北のほうに新しいホ-ルができました。それを中心に北の商店街は活発になる。それから中央通の商店街が活発になる。そして、南の方のいまの市民会館、そこもますますこれから利用して活躍する。この縦の線で、ますます都城が、もっと元気が出てくればいいなと希望をもっております。
(鈴木)
ぼくは音響の専門家ではないんですけど、ブラスバンドの音は気持ちよく聞こえてきました。音というのは難しくて、多目的ホ-ルという、講演に使う、合唱にも使う、ブラスバンドにも使う、お芝居もやりたいというのは、一長一短だとおもいます。ただ、こうやって使えばいいなというのを、ぜひ発見していただいて、これからも使っていけたらとおいもいます。
(宮原)
他にも利用価値がいっぱいあるという意味で、ぜひ、存続してほしいというのがわたしの希望です。
(岩切)
白水さんにうかがいます。ア-トでまちを楽しくしたいというMAPとして活動されているようですが、MAPとして、この建物の位置付けとか、これをどう活用していったらいいのかという提案もあるようですので、そのへんの話をお願いします。
(白水)
MAPの方では、すでに昨年の9月に、都城市に提案をしております。その内容は、別の使い方で次世代へつなげるという案です。きょうの講演会のなかで、みなさん感じられたとおもいますが、市民会館の価値のすばらしさ、デザインとか構造のすばらしさ、それは、世界に誇れるものです。それにいちばんふさわしい建物としては、なにがいいのかとかんがえたときに、美術館というのはどうだろう、それも、建築の模型を展示するとか、携帯電話のデザイン展をするとか、アニメの展覧会とか、いまみなさんが従来の美術館にもっているイメ-ジとは違う、たとえば、幕張メッセでいろんなイベントがありますけれども、そういう美術館にしたらどうかと。では、いまの美術館はどうするかというと、都城市が島津家から1万点のお宝をもらいまして、それは市の図書館の保管庫にあります。その目録作成が終われば、これは市民の宝として、公開・保存をしていくということになるとおもいます。あらたに、土地を買って建設しようという話もありますが、それでしたら、いまの美術館がお宝の所蔵・展示には適した建物ですので、そちらに機能を移転して、そういうふうにすれば、財政上も市民は納得のいくものになると考えます。
わたしも5年前までそうだったんですけど、市民会館がこんなに凄いものだということは、まったく知りませんでした。菊竹さんのキの字も知らなかったです。これは世界に誇れる、市民の宝だとおもいました。それで、これを改修して美術館にする。いまの美術館の方は島津家資料館にする。資料館があたらしくできれば、そこは、都城の歴史・伝統分野の拠点にして、市民会館・新美術館を、美術ア-ト分野の拠点にする。そして、あたらしくできた文化会館を音楽・演劇関係の拠点にすれば、都城に文化の拠点が3つもできて、子どもたちの未来、市民のモチベ-ションも高まり、まず、市民会館を残したということで、世界中に都城をアピ-ルできるのではないかと考えています。
都城の市民が知らないことのひとつに、維持費がかかる、維持費がかかるという噂だけが広がっているんですけれど、壊したらどうなるかというと、解体費も維持費の6年分以上をいっぺんに使いますし、さらに4千万円くらい使って整地しても、2、3年後には、図書館かなにかわかりませんけれど、市の公共的な建物が建つわけで、そこに何十億というお金が動きます。いまある建物で、しかもこんなに魅力があり、世界に発信できるような建物ですので、それをうまく利用し、これから都城が必要とする建物に転用改修していけば、税金を負担するわたしたち、未来の働く人たち、ここにいる高校生たちも数年後には納税者になっているとおもいますが、わたしたちのお財布にもやさしく、都城を全国にアピ-ルできて、都城市民会館というすばらしい宝を活用できるのではないかと考えています。
(岩切)
いろんな提案をおもちのようですけど、そのなかで、せっかくですので、専門家の方たちになにか質問はありませんか。
(白水)
都城市民会館の耐震診断について、市は残すことが決まってからやるものとしているようです。お金がかかりますので、そうかもしれないとおもいますが、目視では難しいかもしれませんけど、どのようにお考えでしょうか。
(遠藤)
都城市民会館の場合は、耐震診断は必要ないかとおもいます。40年経ってまして、あれだけコンクリ-トがきちんと残っているのはあまりないです。それに、建物の屋根はすごく軽いんです。木造より軽いです。全体の材料を全部集めて、㎡単位で割ると、とんでもない数値が出てくる。それくらいの軽さですから、地震が来ても、なんら影響はないとおもいます。そういう軽い建物は台風がきたとき動きます。みなさんご承知のように、さいしょ、トラスで顕れている屋根の鉄骨梁は、パネルで覆われていました。大台風がきたときは、それがゆれるんです。わずかですが。それで、屋根の鉄板がすこしずれて雨漏りの原因になった。そんなことがあったものですから、ちょうど、それを取ったために、大きい梁が動かなくなって、屋根がうごかなくなって、雨漏りも少なくなった。
ですから、2千万円も掛けて耐震検査をするんでしたら、専門的な構造家を呼んで、ちょっと調べていただければ、構造計算書も残っていますので、それで評価できるとおもいます。
(多田)
耐震診断というのは、いま、はやりですので、絶対的にだいじょうぶですという物理的な計算的なものを出さなければいけないとおもいます。遠藤さんが言われたように、能力のある構造家がみると、新耐震の基準に合致させることを簡単にできるかもしれない。構造的にクラックが入っていないことも加味できるかもしれません。早く安くつくった姉歯さんみたいな人でなければ、いい解決法が見つかるかもしれませんので、きちんと検査して出してあげたらいいとおもいます。
ちなみに言えば、善通寺(偕行社)のときも重要文化財ですので、わたしが知るかぎり、日本でもっとも無理がきいて信頼できる構造家の岡田さんを口説きました。お金はむごい金額しか払っていません。情熱をもって、誰かが口説きに行ってもらえば、岡田先生とはいいませんが、いい人がまたひとり、加わってもらえるかもしれませんので、「竹の会」でも誰か探したらいいとおもいます。いい人にみてもらうことが必要だとおもいます。
(岩切)
「竹の会」には構造家がいませんが、意欲のある人にがんばってもらって、ということも必要ですね。他になにかありませんか。
(多田)
白水さんが言われました、役所のとっておきの言葉ですが「古くなった建物には維持管理費がかかる」といつも言います。あたりまえですよね。じゃあ、あたらしい建物をたてたら、2、3年は維持費がかからないかもしれないけれど、5年後からかかるんです。また、同じことを繰り返すんです。いい建物を建てておけば、40年も持ったんですよ。人間だって風邪ひいたり、すりむいたり骨を折ったりしたら医者に行きます。建物だってそれくらいの費用はかかるでしょう。また、維持管理というのは、人件費がほとんどです。いい建物を建てておけば、建物をなおすお金は、毎年きちんと維持しておけば、こんなことにはならなかったとおもう。
古くなったから壊します、そうすると、こんどは40年持たないものしかつくれません。まして、こんな世界に誇れるものはきっとつくれません。入札なんかで設計者を選んでいると。いま言っている、維持費がかからないということで、もし戦うとすると、長寿命の建物でもう100年つかいましょうよということを大きな声で言い、その裏づけをとっていったらいいとおもいます。この計算をするとですね、たぶん、いまあるものを使った方が、必ずト-タル金額では安いとおもいます。
(岩切)
40年で壊すという発送を、まずしないで欲しい。人間とおなじように、せめて還暦までは建物をだいじに使うということが、建物との付き合い方だとおもいます。日本人の平均寿命は80年くらいですから、100年残ったものは、あと100年もたせるという発想でいけば、40年経ったものは、あと40年もたせるという発想もだいじだとおもいます。
さて、時間も過ぎてきましたので、このあたりで会場から意見をいただきたいとおもいます。
どなたか発言はありませんか。
(会場から)
個人的に、自宅が都城市民会館のすぐ近くにあり、世代的にも昭和41年の開館にちかく、会館にふかいふかい思い入れがあります。今回の存続活動につきまして、なにか協力ができればという熱い思いで、きょうはこの会場にやってきました。
そこで、建築のプロがいますので、聞いておきたいとおもうのですが、できあがった当所、野外音楽堂がありまして、いまは楽屋の下にうずもれていますけれども、できれば、菊竹さんがつくられた当時のきれいなカタチを見てみたいとおもっております。シュミレ-ションでけっこうですけれど、いまの既存の楽屋、増設した楽屋を除き、むかしの野外音楽堂の原型に戻した場合に、費用がどれくらいになるか、いちどシュミレ-ションしていただくと参考になるかなとおもいます。これはお願い事でございます。
(岩切)
いくらかかるかというのは、たいへん時間がかかりそうなんですけれど、もとに戻すという発想は、ひじょうにたいせつな気がします。野外ステ-ジがあったときの状況や、改造されたいきさつなどについてお願いします。
(宮原)
文化協会の事務局長をしております黒木さんから、野外音楽堂の説明をしてもらいたいとおもいます
(黒木)
野外音楽堂ができて、2、3回この場所が使われたことがあります。ただ、この周辺は住宅がたくさんありまして、吹奏楽をやりましたときに、音が周辺に広がってしまいまして、苦情が出ました。その後は使われなくなりました。ですから、ここは、ほとんど使われなかったと記憶しています。それで、なにかいい方法・使い方がないかということで、ここは楽屋が少なかったものですから、楽屋棟として使おうということになりまして、いまのカタチになったと記憶しています。
カタチとしては、いまの楽屋がないほうが外観的にはよかったとおもいますが、実際面としてはどうだったんでしょうか、一部の考え方かもしれませんが、野外音楽堂の評判はよくなかったように記憶しています。
(白水)
わたしも、ある本で、2回しか使われていないと書いてあったことは知っています。
資料の裏に案が載っていますけれど、菊竹さん自身が試案として持ってきた改造案のなかでも、そこを元に戻すという言葉を見ています。都城工業高校の卒業生がつくった改造案も、野外ステ-ジ部をもとに戻すという案でした。そして、わたしたちMAPが出している案も、もとに戻すという案で、みな共通しています。これはとても魅力的な提案なのだろうとおもいます。
MAPの、美術館に、という提案では、そこを青空ワ-クショップもできる野外の展示場にすることを提案したいとおもいます。そうすると、音は出ませんので、静かにそこにあるオブジェ等を見てもらえますし、青空の元で、野外でするような活動もできますし、大きなものを飾ったりすることもできます。魅力的なまちなかの美術館になるとおもいます。
(岩切)
音に関して、遠藤さんなにかありますか。
(遠藤)
いまは楽屋が建って、よくわからなくなっていますが、最初のころは、小さなステ-ジと2本の柱が立っていたはずです。その柱の上は、唐傘のような丸い車輪がついていまして、ぼくたちの考えは、あすこにテントを張れるようにしていたんです。その当時のテントは弱いものでしたが、その後、ガラス繊維の後楽園の野球場のようなテントができました。あそこはテントを張って、音楽会とか、中学生たちがなにかできる、ということで考えたんです。テントを張れば、また違う使い方もできるとおもいます。床はしっかりしていますので、雨漏りもないとおもいます。
(岩切)
ひとつの印象として、市民会館は、音についてはいろいろ問題があったようですが、音のでない美術館としてなら、問題なく再生復活できるのではないかという壇上の意見が出ました。
他に、会場からないですか。
(会場から)
わたしは1950年の終わりごろに東京に行ったとき、あなたはどこからみえたんですか、という話になったときに「都城です」というと、「都城ってどこにあるんだ」そんな返事がほとんどでした。そんなときに、市民会館ができまして、建築雑誌でこの特集号がでたんですね。わたしは、その本を持ち歩いて「都城はこんなところなんですよ」と言ってまわったことがあります。
きょうは、わざわざ遠方からたくさんの先生が雨のなかお見えになりましたが、先生はあまり期待しないで、都城・宮崎は貧乏県なんです。文化はないです。いろいろ期待しているようですが。若い者が駅前でバンドをやると「あっちいけ、うるさい」こういうまちです。都会とは違うんです。
わたしだって従業員が100人からいますと、はっきりいって、給料や賞与やら考えると寝られなくなっちゃうんです。とても、それどころじゃない。だから、市民会館を残そうということで、はまってしまうと、そっちに一生懸命になる、だから、やめた方がいい。
前の市長のときも、市にはいろいろ文句を言いました。はっきりいって、文化はないです。残念ながら、そういうまちなんです。だから、先生がた、あまり期待しない方がいい。ただ、いいものであるということは、ここで確認できました。
わたしは、ひとつだけいいアイデアがあります。それは、60年代にこの建物を一生懸命つくった。そのときに、われわれは霧島焼酎をいっしょうけんめい飲んだんです。だから、霧島酒造さんに差し上げたらどうでしょうか。いま40億円の工場をつくっていますので、そういうところに差し上げたらどうでしょうか。「霧島焼酎さん、もうすこしはこういうことにも関心をもってください」ということで。
そんな提案をして、わたしの意見としたいとおもいます。
(岩切)
なかなかユニ-クな提案でした。
他になにかありませんか。
(会場から)
わたしは、学生時代に、東京や名古屋にいたことがあります。そこで、飲み方のときなどに、あなたの出身はどこね、とそんな話になります。そいいうときに、「都城です」というと、「野球が強いところだね」という返事が一般の人からはかえってきます。ところが、建築家とか学校の先生などのいる席になりますと「都城市民会館があるところだね」と、なかには「ぼくは見に行ったことがあるよ」という人もいまいた。わたしは都城で生まれて育って、よそに行って、市民会館がそんなにすばらしいものだとは知らなかったわけです。そこで、その話を聞きまして、わたしはそのとき、誇りというかプライドといいますか、そういうものを感じました。人間は誇りがないと人間として生きていけません。市民会館があることで、17万人になりました都城市民ひとりひとりに、小さなものかもしれませんが、誇りが植えつけられることになります。市民会館はかけがえのない宝物として、これからもだいじに守っていきたいとおもいます。
1点だけ鈴木先生に質問したいんですけど、市民会館の問題がもちあがったきっかけに、昨年、市が市長に提出しました「市民会館の今後の方策に対する報告書」というものがあります。このなかで建築的な価値を検証し、結果的に保存に値しないという位置付けをしていますが、その理由のひとつが、メタボリズムという理念が保存にそぐわないということ、もうひとつが、旧建設省が98年に選びました「公共建築100選」に選ばれていないということです。メタボリズムについては、先ほど話がありましたので理解できました。2番目の「公共建築100選」についてなんですけれど、わたしも「100選」のことは報告書が出るまで知らなかったものですから、資料を調べてみましたら、さいわい、鈴木先生が審査員として加わっております。「100選」に選ばれていないので保存に値しない、という論法をこの報告書がとっていますので、それについてコメントをお願いします。
(鈴木)
「100選」のことは記憶があります。当時の環境営繕部長の方が熱心で、いい企画だなということで、ひじょうにスピ-ディに選びまして、すばらしい100が出てきました。選び方はお役所特有ですから、基本的に地元ブロックから上げてきてもらうわけです。それを、整理していくやり方です。
100というのは多いようで少ないんです。日本に何十万か何百万か建物があるなかで、入るかは入らないか。それに入ってないから壊すというのは、詭弁もいいところだとおもいますね。たとえば、「わが県にはオリンピックの標準記録に達している選手が5人しかいないから、陸上競技場はつくらなくていい」それくらい、ひどい論理だとおもいます。
そういうネガティブなことのために、公共建築100選というのをやっているのではなくて、この100選というのが、すごく魅力的でしょうと、そういうのが呼び水になって、ここにもすばらしいものがあるじゃないか、ここにもと、本来そういう意味でのお役所用語で言う啓発運動だったわけです。それを、たとえば「日本の名水100選」に入ってないから、ここの水はおいしくないというのではなく、ここもおいしいじゃないか、これもすばらしいじゃないか、というのが本来の趣旨であり、100のなかにすべてが入るわけがないでしょう。100が200になり、200が500になるというのが、よい建築文化をつくるもとであるわけです。
ですから、報告書がそんなことを言っているとしたら、ほんとに、ジダンではありませんけど、頭突きをしてやりたくなりますね。それこそ、きわめて狡猾な役人の論理だとおもいます。
(岩切)
会場からもうひとりだけ、どなたかありませんか
(会場から)
たいへん楽しい話になってきました。ちょうど「100選」があったときに、朝日新聞の大西若人さんが宮崎支局にいまして、大西さんから「どうしてこの建物が100選に選ばれなかったんでしょうか」と電話で聞かれたことがあります。日南文化センタ-の話も出まして、「どうして二大巨匠の建物があるのに、それが入らないのか」ということでして、そのときのことは、大西さんが記事に書いていたのを記憶しています。まだ、そのころは市民会館の保存うんぬんの話が出ていなかったので、それほど気にとめることなく、わかる人がわかればいいくらいにしかおもっていませんでした。
2年前くらい前だったと思いますが、前の市長さんのときに「市民会館は保存する」という意見がはっきり出されて、新聞記事になっていました。そのときもそれを書いた記者に電話をして、その詳細を聞いたことがありますが、その明確にされた後に市長さんが変わり、こういう動きになっているようで、どうも、市民会館は誕生のころから、市長さんとの関わりが大きくて、都城は市長さんによってころころ意見が変わって困っているようです。自治体の建物というのは、自治体の長の意見によってころころ変わるということがあるわけですけれど。
ただ、わたしが、いま、たいへん感心しているのは、これだけの多くの方が集まって意見を出してシンポジウムが開かれるようになってきたということです。これは、ひじょうに期待ができることだとおもいます。
市民会館のよさは、鈴木さんからじゅうぶん力説していただきましたので、みなさんよく理解できたとおもいます。建物がいいということもそうですけど、いかんせん、多田さんの香川県には名建築がたくさんありますけれども、宮崎県には、なかなか誇りうるものがない。じゃあ、市民会館を残さずに、他に残すものがあるのか、と言いたくなるくらいです。これから期待したい・協力できたらとおもうのは、市民のかたに、建物っていいなとか、この街並みはいいなという気持ちが広がることがだいじだろうと感じています。この建物はいいから残す、文化財になったから残るよという以上に、建築っていいね、という気持ちがみなさんに広がっていき、街並みがよくなる。わがまち、わが県、わが国というくらいに誇れる気持ちにつながっていく、その一歩になってほしい。そういう市民の気持ちが広がることを期待しています。なにかお役に立つことがあったら協力したいです。ぜひ、がんばっていただきたいとおもいます。
(岩切)
時間がありませんので、会場のほうは、いおうこれで終わりにしまして、壇上の方に1分づつ差し上げますので、これだけは、ということを白水さんからお願いします。
(白水)
都城市民会館が、わたしたちみんなの財産であるということ、それが世界に誇るべきものであるということ、そして、それが先々、ふところにもやさしい方向に行って欲しいということ。そして、それをのこしていくためには、行政に対してどうのこうのというだけではなく、わたしたちがこうして集まって、打開策を考え、みんなで力を合わせてやっていくことが必要だとおもいます。ここにいるみなさんが、市民会館のその事実を、広く宣伝して欲しいとおもいます。
(宮原)
わたくしも、まだまだ都城市民会館のよさをわかっていない人たちに、アンケ-トをしましたときも、市民会館そのものに行ったことがないという若い人もいました。どうにかして、あそこに足を運んでいただけないものか、それがわたしたちの、いまからの課題だとおもいます。いろんなアイデアがありましたら、提供など、よろしくお願いいたします。
(遠藤)
建築というのは、都城市民会館だけではなく、かわいがれば、かわいがるほど、こたえてくれるものです。だから、ひとりひとりが、建築だけでなく、塀にしても、樹木にしても、みんながかわいがれば、それだけ喜んでくれるんですね。都城市民会館のこういう運動が起こったことは、すごく喜ばしくて、ひとつひとつのものをかわいがっていただければとおもいます。それが、次代の子どもたちにつながる心になるとおもいます。
(多田)
こういう会話が進んでいくというのは、まずは第一歩だろうとおもいます。文化がない、貧しい県というのは、たぶん、日本全国、どこも一緒だろうとおもいます。それをやったのは行政だろうとおもいますが、行政が文化はないということをみんなに教育して、お金を使い果たしてきました。ところが、それには、大きく市民が影響しているわけですので、これも自分たちの責任だとおもうことにします。だから、要求があればかならず技術が育つとしたら、守るとか保存とか利用するとかそんなことを議論するより、使います。こんな使い方もできます。専用ホ-ルではありませんので、音が悪いとか環境が悪いのはしかたがない。ここにあう方法を使います。100個も使えます、ということにして、「守る」「壊す」「保存」ということから、早く脱却することがいちばんの近道じゃないかなと感じます。
(鈴木)
ペシミスティック(Pessimistic)な意見が出ているとおもいますけど、これは、公共建築であるわけで、みなさんが所有者であるわけです。市の顔色をうかがっているというのは、やっぱりヘンです。いい建物で、公共建築であれば、その価値と可能性を訴えれば、それは、理屈は通るんです。「ない袖はふれない」と自治体は言うべきではなくて、そのなかで、どういうふうにやるかが「公共」というものです。ですから、公共建築の場合には、自分が経営者になる必要はなくて、自分たちはオ-ナ-なんですから、もっとちゃんと経営しろということで、可能性と価値を言っていけば、だいじょうぶだとおもいます。ただ、築40年というのは微妙な時期でして、50年を過ぎれば登録文化財とか、重要文化財とか、いろんなシステムに乗ってくる。いまはまさに、建物が自力で生き続けなくてはならない時期ですので、ぜひ、この数年間、力をゆるめずにいただきたいとおもいます。
先ほどから、文化がないとかいう話がありましたけれども、けしてそういうことはなく、こういう会をすること自体、ものすごいポテンシャルがあることだとおもいますし、こういうバッジがあるというのは、世界に冠たるアイデアだとおもいますので、これだけのアイデアとポテンシャルに対して、もっと自信をもっていただきたいし、われわれの方が、学ばせていただくわけですので、今後ともよろしくお願いいたします。
(岩切)
1時間半にわたりまして、いろいろと議論をしてきまして、いままでと今後の市民会館の姿の、だいたいの輪郭が見えてきたような印象を持つことができました。
とくに、まとめることもなく、壇上のみなさんが話したことが、すべてひとつの指針となるようにおもいますので、これをもちましてシンポジウムを終わりたいとおもいます。
どうもありがとうございました。
(司会者)
どうもありがとうございました。これをもちまして本日のシンポジウムを終了します。パネリストのみなさん、会場のみなさん、ほんとうにお疲れさまでした。
壇上のみなさんは、どうぞご降壇ください。(拍手)
この都城市民会館を取り壊すことになったら、国内外から失望の声がとんでくる、そんな気がします。ぜひ、これからもみなさまの力をいただきまして、存続運動に取り組んでまいりたいとおもいます。きょうは、ほんとうにありがとうございました。
以上
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