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2010年10月 1日 (金)

DOCOMOMOフォ-ラム都城『近代建築遺産と都城市民会館』

2007728日に「南九州の文化と建築を考える会」の主催で開催されたシンポジウムのテキストです。建築界と美術界から気鋭の論客が集まりました。とても興味深い内容になっています。
なお、文責はこのブログの管理者にあります。

DOCOMOMO
フォ-ラム都城『近代建築遺産と都城市民会館』

日時 2007728日(土)13401650
場所 都城市総合福祉会館


第一部 基調講話:兼松紘一郎「風景のある建築」
第二部 パネルディスカッション(ゲストト-ク・フリ-ト-ク)
 コ-ディネ-タ-:兼松紘一郎(建築家・DOCOMOMO Japan 幹事長)
 パネリスト:田島正陽(建築家・JIA九州支部前支部長)
       磯達雄(ジャ-ナリスト、『昭和モダン建築巡礼』著者)
       五十嵐太郎(東北大学准教授・建築史家)
       倉方俊輔(日本理科大学講師・建築史家)
       彦坂尚嘉(現代美術作家・「ア-トスタディズ」ディレクタ-)

(司会者:ヒラカワ) これより、「近代建築遺産と都城市民会館」と題しまして「DOCOMOMOフォ-ラム都城」を開催します。本日は参議院選挙前の忙しい週末にもかかわらず、ご参加いただきましてありがとうございます。はじめに、主催者を代表しまして、はじまりの言葉を申し述べます。
 1966年生まれの都城市民会館は、ことしで41歳を迎えたことになります。人間でいいますと(男であればのはなしですが)、厄年、それも本厄ということになります。たしかに、解体の危機にあるわけですので、大厄に違いありません。そこで、みなさんとともに、盛大に厄落としのイベントをしようということになり、『都城市民会館厄払い』と称しまして、現在都城市立美術館で記念展覧会を開催していますが、それに合わせて、このようなフォ-ラムを開催することにしました。
DOCOMOMO
(ドコモモ)といいますのは、DocumentationConservationModernMovementの頭文字をとったもので、近代建築の記録と保存に関する活動をする世界的な組織のことです。現在、世界に40カ国以上の支部がありまして活発な活動をおこなっていますが、その日本支部としてDOCOMOMO Japan(鈴木博之代表:東京大学教授)があります。そのDOCOMOMOが、先ごろ2006年度の新10選を選びまして、そのひとつに都城市民会館が選ばれました。昨日、DOCOMOMO Japanの幹事長である兼松さんと、福岡から来ていただいた会員の田島さんとで都城市役所を訪れまして、選定プレ-トを授与してきました。DOCOMOMOについては、あとで兼松さんから詳しい説明があるかとおもいます。
都城市民会館は、日本を代表する近代建築物として、たいへん評価の高い建物ですが、建築家で東京大学の教授である内藤廣さんはこう言っています。「この建物にはじめて遭遇した人は、誰でもしばし言葉を失う。そして、次の瞬間、どうしたらこんな建物を思いつき、実現させる意思を持ちうるのか、と思うに違いない。・・」この言葉に、もっとも会館の価値がよく象徴されているとおもいます。このような建物を、人間がじっさいに考え、実現させた意思。世界中さがしても、このような独創性あふれる建物はありません。人類の偉大なる創造性の記念碑といっていいとおもいます。
この写真を見てください。これは、41年前、都城市民会館ができて、雑誌に載ったときの写真です。これが都城市民会館ですが、その横に、この須田記念館というレトロな建物が見えています。いま、わたしたちのいるこの場所(都城福祉会館)に、この建物は建っていました。41年前、市民会館ができるまで、この建物は公会堂として使われていまして、ホ-ルの役割をもっていました。市民会館ができたことで、お役御免ということで、その後、壊されたわけです。この建物が残っていれば、都城のアイデンティティ、文化にとって、たいへん力のあるすばらしい建物だろうとおもいます。都城にとって、ひじょうに惜しい建物をなくしました。
 昨年、都城市にあたらしい文化ホ-ル「MJ」が誕生し、こんどはこの都城市民会館が失われようとしています。せっかく、この地にすばらしい建物がありながら、新しいものができたということで、安易に、どこにでもある、おざなりのものに置きかえられていってしまう、これは、都城にとって、たいへん不幸なことであるとわたしは信じています。
 本日は、兼松さんをはじめ、たくさんのすばらしいゲストが東京や福岡から来てくださいました。みなさんとともに、近代建築の意味と意義、都城市民会館のことなどについて、いっしょに知恵を出し合って、考えてみたいとおもいます。どうぞ、よろしくおねがいいたします。
 さっそく、基調講話に入りたいとおもいますが、その前に、講師の兼松先生のご紹介をいたします。兼松先生は、1940年に東京に生まれ、明治大学工学部・建築学科を卒業されました。1975年、兼松設計事務所を設立し、現在は㈱兼松設計の代表取締役を勤めていらっしゃいますが、DOCOMOMO Japanの幹事長として、たくさんの近代建築の保存に関わっています。また、日本建築学会、JIA・日本建築家協会などでも、重要な立場で仕事をされています。
それでは、兼松先生、よろしくお願いいたします。

第一部 基調講話:兼松紘一郎「風景のある建築」

(兼松) 皆さんこんにちは。兼松です。昨日都城にきまして、昨日は表から、そして先ほどは会館の中を拝見させていただきました。
市民会館に引っ張られてといいますか、もちろん、ヒラカワさんはじめ、保存活動をしている方から声がかかって来たんですけども、このところ、都城市民会館を何とかしたいと思ってしようがありませんでした。やっと実現できてうれしく思います。
 きょうは映像を見ていただきながら、近代建築に関する話をさせていただきます。はじめ、1時間といわれたんですけれども、僕と同じく都城市民会館に惹かれてたくさんの方がいらしています。東京で何かイベントをやろうと思っても、なかなか集まっていただけないほどのメンバーです。せっかくの機会ですので、ぼくの話より、この方々と一緒に話をした方がよほど楽しいし、皆さんと色々な意見交換ができた方がいいと思いますので、少し短くして、30分か40分くらいお話しさせていただきます。その後、実は昨日、急にコーディネーターをやれと福岡の田島さんから言われて、それもいいかもしれないと思いました。そんなことで始めさせていただきます。
きょう、私が準備した映像は、都城だけじゃなくて、数はそんなにたくさんはないんですけど、いろいろ問題になっている建築をまとめてみました。建築家協会(JIA)の中に、保存問題委員会というのがあります。関東甲信越支部と近畿支部の二つしか委員会がないのですが、東京にあります委員会は、かなり精力的に活動しておりまして、ぼくはその委員会の委員長をかつて何回かつとめたことがあります。そこをベースにし、更にDOCOMOMOにかかわりながら、研究・保存に取り組んでいるんですけども、おかげさまで、吉田五十八邸だとか、国際文化会館とかを残すことができました。しかし、後で出てきますけども、この1、2年、非常に、なんていうんでしょうか、なかなかうまくいかないんですよね。都城もそうなんですけれども、なぜそうなるんだろう、どうすればこういうすばらしい建築遺産を残せるのか。答えがでないのですけども、今日、磯さん、倉方さんなど来てくださった方のお話を伺いながら、今後の糧にしていきたいとおもいます。やはり地元都城のみなさんの気持ちだとか、ぼくにとっても聞きたいことがたくさんありますので、よろしくお願いします。
 タイトルは「風景となる建築」としました。建築というのは、人の心の中にある風景にとって大きな役割を果たしているのだと思うからです。つまり、ぼくが都城を考えるときに、この市民会館の存在は欠かせないのです。
 これは、さっきの市民会館の写真をスケッチしたものです。ぼくはブログをやってまして、都城は何回か書いたことがあるんですけども、写真をそのまま使うと、著作権とかいろいろありますのでスケッチして載せたのですが、ぼくのイメージはこれに尽きるのです。
 さっきヒラカワさんから話がありましたように、昨日、副市長に会いまして、2006年度の10選に選定しました、という書類とステンレスでできている20センチ角の選定プレートをお渡ししてきました。これを都城市民会館のどこかに取り付けて大切にしてくださいというおもいで渡したんですけれども、受け取って下さって、話はけっこう弾んだんですが、あとで新聞記者が、副市長に取材したところでは、新聞で報道されていますけれども、残念ながら「まあ、気持ちはわかるけども、壊します」という答えだったようです。
 DOCOMOMO(ドコモモ)の紹介をしておきます。DOCOMOMOは、1990年に設立されました。発祥は、オランダの歴史研究家ヘンケット教授という方が、自分が関わったモダニズム建築、外国では、あまりモダニズムという言い方はしなくて、モダンムーブメントという言い方をするようですけど、近代化運動の中で生まれた建築がなくなっていくことに危機感を覚えて、なんとか組織をつくりたいという提唱をしまして、それが受け入れられDOCOMOMOという国際組織ができました。現在、40数カ国が加盟しておりまして、日本は2000年のブラジリアの大会で正式に加盟承認されました。
そのブラジリアの大会のときに、世界各国から20のモダニズム建築を選んで、それを本にしようという話が日本にも舞い込みまして、日本は、まだDOCOMOMOという組織に加盟してなかったものですから、日本建築学会の中に委員会をつくりまして、20を選んでブラジリアの大会に持っていきまして、それが立派な本になっています。
20
選んだのだから展覧会をやろうということになりまして、そのなかに選ばれた、神奈川県鎌倉市にある神奈川県立近代美術館で「20選展」という展覧会をやったのが、DOCOMOMO  Japanのスタートのような形になりました。そのメンバーが中心になって、組織構成をして、DOCOMOMO Japanという、日本支部をつくったわけです。
二年に一度、DOCOMOMOは世界大会をやっておりまして、昨年はトルコでおこなわれました。二年ごとですから、この2008年度に、日本開催を立候補しようという気持ちもありまして、トルコへ行ったんですけど、結果としては、一度、発祥の地であるオランダに戻したい、ということで、オランダに決まりました。会場はアンカラ工科大学でして、このようなポスターができております。
(トルコでの大会の写真を見ながら)ここにジャパン代表の鈴木博之先生(東京大学大学院教授・建築史家)がいて、この方はカッシアートというイタリアの歴史学者で、いまDOCOMOMOの会長をしている人です。こちらはオランダの代表で、30代の女性です。この方は20代の大学院生ですけど、事務局長をやっています。
この方がヘンケット教授です。オランダの代表とそれをサポートしている事務局長は、まだ若いんですけど、それをヘンケットさんがしっかりサポートして、会場からさりげなくプレゼンテーションをしています。個人的にもすばらしい人柄の人格者でして、会議が終わった後も、楽しく交流ができた、とてもいい大会でした。ぼくは、はじめてDOCOMOMOの世界大会に参加したんですけど、非常に印象ぶかい大会でした。
ここに、きょうお話してくださる倉方さんがいます。篠田さんというDOCOMOMOのメンバーは、ご夫婦でいらっしゃってます。会場では、外国の方が、こういう感じでプレゼンテーションをしたり、研究発表をします。ここにいるのが山名さんという、いま理科大の准教授ですけど、かつてDOCOMOMOフレンチのメンバーでも在った、そういう方々が参加しました。
大会はプレゼンテーションだとか研究発表だけではなくて、ポスターセッションがありまして、ドコモモに選定した建築の紹介をしております。これは、ブル-ノ・タウトの設計した日向邸、そして菊竹さんのスカイハウスです。この時は「住宅を」という要請がありましたので、それらを選びました。これは、レーモンドの設計した軽井沢の住宅です。これは北海道の上遠野邸という住宅です。
懇親会の写真です。この人はモロッコの素敵な女性なんですけど、こういうメンバーもいました。これは山名さんが、タウトと吉田鉄郎についての研究発表をやったときの写真です。研究発表とはいいながら、和やかな雰囲気で、終わった後、会場から質問を受けるときは、こんな感じです。
ちょうど、トルコはラマダンの時期で、あんまりお酒を飲んだりできないんですが、それでも、あいている店がありまして、ここで楽しく一夜をすごした大会でした。
大会はトルコの首都アンカラを中心として行われたんですけど、前日にレセプション、ウェルカムパーティがイスタンブールでありまして、ぼくはイスタンブール旧市街の、ベラパレスというホテルに泊まりました。これは、イスタンブールの街の一画です。このように、トルコの建築なんかを見ますと、ここになくてはならない建築というふうに位置づけられています。建築はそういう側面があるんだろう、という思いで映像を見てもらいました。建築というのは、時間が経つと風景になる、そういうことだろうとぼくはおもっています。
この都城市民会館もいま、先ほどヒラカワさんが言ったように、都城にとっては、なくてはならない建築だろうとおもうんですけど、ほんとになくしていいんだろうか、という気がしております。
どうしてこういう写真(高校時代の集合写真)をお見せするかといいますと、ぼくの建築にまつわる風景について考えるときに、二つの写真が思い浮かぶのです。これはぼくの、高校の卒業記念のときの写真で、昔は文学青年でして文学部にいたんですけども、そのときのメンバーです。ぼくがここにいて、なんか風采のあがらない顔をしてますけど、部長をやってまして、こういうメンバーで活動してました。
この校舎の風景が目に焼きついているわけです。ここで学んだ高校時代、青春時代というのは、ぼくにとって、ほんとにもう欠かせない、人生のなかの大切なおもいでというか、記憶になっているわけですけど、それは、こういう建築とともにあるわけです。
高校時代を思い浮かべると、こういう同級生、ここに二人同級生がいて、うしろは後輩ですけど、そういう友人たちとのいろんないきさつや、先生との出会いなんかと一緒に、その学校の独特の校舎のなかの雰囲気が切り離せないと思っていまして、この写真は、どうしても建築にまつわる風景みたいなもの、原風景といっていいんでしょうか、ぼくにとっての、かかせない建築ということでとりあげました。
それともう一つ、建築の原風景というとこの写真です(41年前の都城市の写真)。これはさっきヒラカワさんが出したものとおなじですけど、菊竹清訓の作品集のなかに出てくる、小山孝さんという写真家のものです。この写真家を僕は知らないんですけど、この風景がぼくの建築の原風景でもあるし、たぶん都城という、素敵な、雅な名前の、都城と聞いた時に、この写真が頭の中に浮かんでくるんです。なぜだとおもいますか。この建築は1966年ですね。ぼくが大学を出たのは1972年、学生時代から建築に惹かれて夢中になっていった時代に、モダニズムという、今になってみると信じられないような、すぐれた建築家の心のこもった、と言いますか、力の入ったというか、新しい時代を築いていくんだという思いに満ちた建築が、どんどんうまれていって、それに触発されて、ぼくは建築にのめりこんでいったのです。その原点が、この写真です。
建築というのは、このように極めて個人的な自分の生き方にも宿っています。とはいいながら、こういう都城のむかしの瓦屋根のなかに、こういう、新しい時代を彷彿させるような建築が生まれたということは、都城の市民にとっては、驚きとか、あるいは、逆に新しい時代が都城でもつくられていくんだ、という思いに満ちたのではないかと想像します。建築というのは、きわめて個人的なものであると同時に、社会的というか、時代を象徴する大きな位置づけがあるんだということを、この写真が象徴しているような気がしてしょうがないんです。
これは菊竹さんの「作品と方法」という作品集の中にでてくる写真なんですね。ぼくは、この本を改めて読んでみたのですが、都城市民会館に関しては、菊竹さん自身は、「メタボリズム」という新陳代謝といいますか、今でいうサスティナブルと言いますか、建築が持続していくような意味をもつメタボリズムという言葉にはほとんど触れずに、設備に関する事項の記述に集中しているんですね。設備だとか構造だとか、それが大切でどういう風に考えていくか、ということに苦労した、そういうことに尽きると述べています。
これは都城市民会館だけではなくて、その作品集の中では、たとえば、萩市民会館という、やはり建築家にとっては、忘れられない建築があるんですけども、そこでも、建築的なデザイン的な魅力を伝えるよりも、そこに使われる、空調だとか照明だとか換気をどういうふうにしていくか、それを伝えることに尽きています。その時代に、菊竹さんはいかに真剣に建築を考えてきたかという、単なるデザイン論、理論ではなくて、建築の本質的なものをきちっと捉えていこうとしていたのだという気がしてしかたがありません。
ただ、やっぱり時代が変わっていくと、いろいろなところが傷んでもくるし、いまの時代に少しそぐわなくなってくるということも事実だろうとは思います。
きょうは、市民会館の内部を仮設のライトで見せてもらいましたが、作品集にあるような姿をもう一度見たいもんだとおもいます。
これは菊竹さんの代表作であるスカイハウスです。これは、1957年ですから、都城のできる8年前にできました。ほんとはこの部分(塀)はなかったんですけども、現状はこんなかたちです、内部はこんなふうになっている、こういうものをつくってきた建築家が都城に渡来したということになるわけですね。
もうひとつ、なんとか存続させたいとおもって、ぼくが事務局長を担い、美術史家の高階秀爾先生を代表とした「神奈川県立近代美術館100年の会」というのをつくりまして(メンバーが今300人くらいいるんですけども)保存活動をしています。この建築は坂倉準三の代表作であり、日本ではじめて、世界でも三番目にできた近代美術館です。鎌倉の鶴岡八幡宮の敷地の一画に借地をして建てられているのですが、八幡宮からはこれを返してほしいといわれているのです。
鉄骨でできているんですけども、戦後の資材の乏しい時代の中に新しい建築をつくって日本を立て直したい、美術をみんなに見ていただきたい、そういう思いでつくった建築であり、それがまわりの環境とうまく調和して、池に映った光がピロティの天井にユラユラと揺れるすばらしい建築です。これも戦後のほぼ同時代にできたというふうに考えていただいていいとおもいます。
今、大きな問題になっているのが、東京、大阪をはじめとする中央郵便局です。郵政民営化にともなって、東京駅とか大阪駅の中心地にあるこれらを高層化して収益を上げたい。でも、その収益は誰のためかというと、非常に微妙で、我々市民のためにというよりも、民営化した会社のためとかですね、それに関わる、大企業とか金融界とか、まあ、それに繋がっている政界の方々の思惑という風にしか、どうも思えないところが気になるところです。
この二つの建築は吉田鉄郎という郵政、昔の逓信省の時代の、もちろん戦前の建築で、戦前モダニズムの代表作です。これは8年後に建てられた大阪中央郵便局です。東京の場合は、白いタイルで、東京駅のレンガだとか、丸の内の赤いレンガの中にあって、白い建築をつくり、それを見たその時代の人たちは、これから新しい時代が始まるんだと、そう思ったに違いありません。大阪になりますと、形はもっと洗練されてきますけれども、戦争を控えて、目立たないような建築ということで、ダークグレイのタイルが貼られています。とてもいい建築で、これも存続が危ぶまれています。
これにはJIA、建築学会、DOCOMOMOなどから要望書が出たりしていますけれど、超党派による国会議員が、これを重要文化財にして残したいという動きが始まりまして、勉強会を開いたり見学会をしたりしています。テレビによく出てくる河村たかしさんと、自民党の平沢勝栄さんが事務局を担っていて、元文部大臣、法務大臣をやられた森山真弓さんとか、河村健夫さんという元文部大臣が加わって、先日、郵政公社の総裁、西川善兵氏に保存要望書を出しました。鈴木博之先生とぼくが、こういう国会議員の会をサポートする立場で、いろいろ一緒になって意見交換したりしています。
これは栃木県庁舎、議事堂です。これは前川國男のお弟子さんの大高正人さんの代表作ですけど、じつは、もうたぶん無くなっています。つい先だって、足場を組んで解体を始めたそうです。跡をどうするかというと、駐車場にするそうで大変残念です。プレキャストコンクリートを組み合わせて、魅力的な構造体を見せたすばらしい建築だったんですけども、残念ながらなくなってしまいました。
これは皆さん、新聞で騒いでますのでわかると思いますけど、黒川記章さんのメタボリズムの実施例として、都城市民会館とおなじく世界に知られている建築です。これも存続が危ぶまれていまして、管理組合理事会は多数決で解体決定したということです。まだ一縷の望みがありまして、まだ建ってます。
都城もそうですけども、メタボリズムという一般の人にはわかりにくいかもしれませんけれども、建築界では知られている建築理論が世界に伝わって、世界の建築家がこれに刺激されて建築活動を始めたということがありまして、世界から何とか残してほしいという意見が寄せられている建築の一つです。建築というのは、個人的なものではあっても、そこにあるということが、人々とか建築家に大きな刺激を与える一つの例ではないかと思います。実際は、メンテナンスが上手くできないという問題がありました。カプセルを取り替えて存続させたいと黒川さんは主張しています。できうる限りサポートしたいと黒川さんと相談しています。
 もうひとつお話しておきたいのが、まず市町村合併なんかがありますと、国からの助成金がきて、まず何かつくらなければならない。それで新しいホールができて、そのホール自身は、お金もかかって、機能も果たしているわけですけども、そうすると、使っていたものの役割を果たした、寿命が尽きたという言い方をされて、壊すということになるんですけれども、そういう懸念される例が、いくつかあります。これは岡山県の津山にある、川島甲士という建築家の代表的な作品、津山文化会館です。これも危うい噂が流れております。これもDOCOMOMOで選んだ建築です。ここに津山城の城址がありまして、これと対応するような意匠を考えた、なかなか魅力的な建築なんですね。こういうPC版(プレキャストコンクリート)という工場で作ったものを組み合わせて作っている建築のひとつです。こういう独特の景観を持った、なかなか印象深い建築なんですね。まったく都城と同じような状況です。
 それから長崎市公会堂。これもDOCOMOMOに選んだんですけども、武基雄という早稲田で教鞭をとった先生の代表作です。長崎も新しい公会堂ができたんですね。これは1962年、都城の4年前にできているんですけど、やはり、エレベーターがないとか、エスカレーターがないということで使いにくいという。けれども、DOCOMOMOが選んだことによって価値が見直され、また、お客がこちらの方が雰囲気がいいというか、居心地がいいということで、戻ってきたというふうにも言われてます。ぼくが見学に行って、写真を撮らせてほしいとおもいまして、管理事務所の方にDOCOMOMOの話をしましたら、大変喜んでくれて、選定したのが支えになると言ってくれました。しかし、これも、大丈夫だろうかと気になっている、存続について噂のでる建築のひとつです。都城よりちょっと大きいです。こういうふうに客席と一体に、二階であっても一体になっていて、演奏者と聴く人が、一緒になって楽しめる空間になってます。
 それから、レーモンドの設計した東京女子大学なんですけど、レーモンドの設計によってキャンパス計画がなされ、9棟が建てられました。そのうちの7棟が登録文化財になっています。これは東寮と言われる宿舎です。それと体育館、これを取り壊そうという計画が進んでいまして、もう仮囲いが始まっている状況で、非常につらい思いをしている建築です。これは体育館です。さっきの都城の室内を見ると、これを思い出して、なにか、ぼくの胸が「きゅん」となるような気がして仕方がありません。
それから残った建築もあります。日土小学校という、愛媛県八幡浜市にある木造の校舎ですけれども、これも取り壊すという話がでたんですが、一部の市民、それから建築界が働き、建築学会はじめDOCOMOMOも働きかけ、残ることになりました。
それから国際文化会館という1951年ですから終戦直後、アメリカのロックフェラーの寄付によって、前川国男、吉村順三、坂倉準三の三人の共同設計で建てられた建築が東京にあります。これも、壊すという理事会決定がなされ、世界にいる会員に「取り壊して建てかえる」という報告がなされたあと、保存運動が起こりました。理事長が、本当に壊していいのだろうかと悩み、いろいろな方の意見を聞いて、理事会決定を翻して「改修して保存する」という決断をし、みごとに再生されました。そういう例もあります。
 理事長には、大変かもしれないけど、これを残しながら使っていけるような改修をすれば、たぶん、末代まで名を残すでしょう。ただし、これを壊してしまったら。悪者として、皆さんの心に理事長の名が刻み込まれますよ、と半分脅しのような、冗談のようなことを言い続けました。できあがった後、朝日新聞の記者の質問に応えて「それがずっと心の重荷にあったけども、とても晴れ晴れとした」というようなメッセージを新聞で公表した建築です。ですから、ぼくは都城の新しい市長が、この理事長と同じ思いを持ってくれることを願っています。
この部分ですが、改修の際、少し広げて、ウッドデッキをつくったりして、見事に使い続けられることになりました。
 それから群馬音楽センター。これはレーモンドの代表作です。群馬の高崎にある音楽堂なんですけれども、これも常に「大丈夫だろうか」という噂が流れている建築です。『ここに泉あり』という映画で話題にもなりましたが、市民の寄付だとか、そういうもので建てられた建築です。群馬交響楽団の本拠地になっているんですが、やはり、音がちょっと問題だとか、いろいろありまして、建て替えて新しい施設ができないものかという噂が常に流れています。だけど、これは消えることはないだろ
うとおもっています。なぜかというと、市民のこの建築に対する思いがものすごく強いんですね。これを無くしたら、高崎の建築は考えられない、それが支えになっている大きな例だとおもって取り上げました。コンクリートの打ち放しなんですよ、内部も。写真が2枚しかありませんけれども、やはり長崎の市民会館と同じく、客席がこのまま舞台と繋がっている。聴衆と演じる人が一体となるような作りをしています。都城市民会館もそうですよね。
ぼくの話はこういうことなんですけど、じゃあ、都城はどうすればいいのか。ひとつは、都城の人たちがこの建築に対してどういうふうに思っているのか、それをどういうふうに伝えればいいのかということです。アンケートも行いましたし、きょう、こういうイベントも行われましたが、何
とか市民の声を積極的に伝えることがひとつです。もうひとつは、世界に繋がるすばらしい建築の存在をもう一度考えてみようという、つまり一旦決めたことではあるけれど、踏みとどまってもう一度振り返ってみるような奥の深さというようなものを議員さんはじめ、市を率いてくれる方が考えてくれないものかと、皆さんと同じように、そんな事を考えます。
建築が風景になるということは、この建築の存在が都城の人たちだけではなくて、ぼくの建築人生の中においても、夢にもでてくるような建築なのだということを是非お伝えしたいと思いまして、今日はお話させていただきました。
 ちょっと散漫になりましたけども、これでぼくの話は、いったん終わらせていただきます。どうもありがとうございました。

第二部 パネルディスカッション(ゲストト-ク・フリ-ト-ク)

(司会)それでは、第二部をはじめます。コ-ディネ-タ-は、第一部の基調講話をお願いしました兼松先生に引き続きお願いします。兼松先生にマイクをお渡ししますので、よろしくお願いします。

(兼松)きのう打ち合わせをしていて、気楽に意見交換した方がいいのではないかということになり、ぼくがコ-ディネ-タ-をつとめることになりました。きょうは、4時くらいまで時間をいただいていますが、230分は時間を延ばしてでも、みなさんと意見交換したいと考えています。
 まず、パネリストを紹介します。このレジュメでは講師と書いてあります田島さんです。JIA(日本建築家協会)の九州支部の支部長もやられた、JIAにとっては、欠かせない建築家のおひとりです。DOCOMOMOのメンバ-でもあります。もう何回も都城には来られているそうですけど、きょうは、どうしても都城に来たいということでした。昨年おこなった、鈴木先生(DOCOMOMO
apan代表)の参加されたシンポジウム(「都城市民会館を守るシンポジウム」2006722日、会場:中山荘、JIA九州支部と都城市民会館を守る会の共催)に田島さんも来ることになっていたんですけど、大雨になって交通機関がストップして、出て来れなくなったそうで、それをすごく気にされていて、きょうは念願がかなったんだとおもいます。
ここに書いてある順番で紹介します。磯さんです。建築ジャ-ナリストでして、とくに都城に関しては、『昭和モダン建築巡礼』という本が出てますけど、これは日経ア-キテクチュアに、ときどき連載されている、宮沢洋さんという編集者のユニ-クな漫画と言うと怒られるでしょうけど、その方と一緒に書かれているジャ-ナリストです。ぼくとは多少の縁がありまして、日本建築学会で編集委員もされてまして、磯さんからの話で文章を書かせてもらったこともあります。また「カ-サ・ブル-タス」という雑誌で活躍されているジャ-ナリストのひとりでもあります。
次は五十嵐太郎さんです。東北大学准教授です。いまや、若手の評論家としてひじょうに暖かい文章ながら鋭い切れ味を持つという、人気の歴史学者です。ことしの二月に行いました、JIAの保存の大会のときにも、ゲストとして来てくださいまして、なかなかするどい論考を披露してくださいました。
その次が倉方俊輔さんです。若手の建築史家として著名な方で、早稲田の出身で吉阪隆正の研究者のおひとりで、コルビュジェと吉阪隆正さんとの関係の本を出しています。すばらしい論考をされてますので、機会があったらぜひ読んでいただきたいとおもいます。彼もDOCOMOMOの主要メンバ-のひとりで、大活躍をされています。
それから、現代美術家の彦坂さんです。名前はまえからお聞きしていたんですけど、じつは、きょうはじめてお会いしまして、さっき、お昼を食べながら、ちょっと話をしました。この建築がなくなるなんて、ありえない話ではないか、と熱弁を聞きまして、わたしもあらためて心強く触発されました。その想いを、お伝えいただけるとおもいます。
 それでは、5分から10分程度で、一人づつ話をしていただいたあと、意見交換に入りたいとおもいます。では、まず田島さんから話をしてください。よろしくお願いします。

(田島) みなさんこんにちは、田島と申します。1950年に群馬県で生まれました。ちょうどいま、兼松さんのスライドのなかで、最後に出てきた群馬音楽センタ-をずっと見てきました。まさに、私のなかで原風景となっている建物です。兼松さんのパソコンに入っている写真を、いま見せてもらいましたが、ほんとうは、私が用意するとよかったんですけど、パソコンがいじれないものですから失礼しています。わたくしは、ヴォ-リズ建築事務所というところに所属しておりました。福岡に転勤で来て、その後、事務所をつくって建築家協会へ入会して現在にいたっています。
長崎の児童福祉施設でマリア園という、レンガ造りで100年くらいたっている、長崎のオランダ坂の右の方に建っている建築があるんですが、とても長崎の風景に溶けこんだいい建物です。フランス人のセンネルという人が設計しました。1990年ごろ、これをなんとかしてくれという依頼がありまして、なんとかしてくれというのは、児童福祉施設なんですが、使われ方が昔のまんまで、たとえば、16人くらいが一緒に、ひと部屋で布団を敷いて寝てる、そんな前近代的な使われ方をしている。それを、増築したり、あるいは中を改造したいというはなしでした。建物は文化財に指定されていまして、いじれないということで、そのときに、兼松さんとか、夏目さんとかJIAの関東甲信越支部のメンバ-に相談したのがきっかけで、お付き合いがはじまりました。DOCOMOMO Japanにつきましても、発足時代から九州の作品をノミネ-トする、そんなお手伝いをしております。
 DOCOMOMOの第1回目の会議が東京でありましたときに、菊竹さんの事務所を訪ねました。DOCOMOMOのメンバ-みんなで行ったんですが、そのときにスカイハウスを見せていただき、ひじょうに感動しました。菊竹さんの事務所は、ちょうどその向かい側にりっぱなオフィスが建っていまして、そこで、菊竹さんからコ-ヒ-とチョコレ-トをいただき、歓迎を受けました。ちょうど、九州国立博物館の仕上げ工事をやっているころで、内装の見本なんかも見せていただいた記憶があります。
もうひとつ、菊竹さんとの接点といいますと、わたしはいま、福岡の桜坂というところに住んでいますが、なんと、おとなりに菊竹さんの設計した住宅がありまして、ひじょうにスカイハウスに似た建物です。ちょっと違うのは、屋根がガラスで囲われている。なぜかというと、菊竹さんの弟さんのアトリエと、自宅です。これが、彫刻家の方ですので、彫刻のマケットというか模型をつくるんですね、それを展示する場所を最上階にガラス張りでつくっている。夏はもう、45℃くらいになるすごい暑い部屋なんですが、とても見た目にはカッコイイ建物がとなりにありまして、菊竹さんとも奥さんとも仲良くさせていただいております。
 そもそも、都城市民会館については、あまり知らなかったんですが、DOCOMOMOのリストアップのときに、いろいろ九州中を回って歩いて、そのときに見たり、建築の団体の集まりで宮崎に来たときに、詳しく中まで見せていただきました。やはり、写真で見るのとはぜんぜん違って、圧倒的ですね。構造的な美しさというか、梁が剥き出しになっている美しさというのを感じました。これは凄いな、なんともいえない。色も黒で迫力ありますし、そこでもうひとつおもいついたのが、アメリカのシカゴにあるクラウン・ホ-ルというミ-ス・ファン・デル・ロ-エが設計した建物で、やはり梁が外にガッと飛び出していて四角い箱を吊っている建物です。それともうひとつ、群馬の音楽センタ-ですが、これも構造は折板構造といいまして、コンクリ-トの板を組み合わせて造ったような、やはり、構造が剥き出しになっている。この3つが、どうもわたしには照らし合わされて、都城市民会館にはすごく親しみがあります。
 群馬音楽センタ-についてちょっとふれておきます。これを設計したレ-モンドさんは、アメリカ人ですが、チェコスロバキアの生まれの人で、ぼくは何年か前にチェコとかハンガリ-に行ったことがあるんですが、あの建物より前か後か、軽井沢にセント・ポ-ル教会という建物があります。木造のちいさな教会で、丸太を使って、とても親しみのある民家風の教会です。チェコの方に行くと、けっこう大きな建築でもあんなデザインでやっているのがありまして、レ-モンドの生まれたところの影響が出ているのだなと感じましたが、群馬の音楽センタ-に関してはぜんぜん違って、お金がなかったのか、コンクリ-トの打ち放しのじつにシンプルなデザインで、内部も先ほどの写真のようにコンクリ-トの打ち放しのままで仕上げがない。ロ-コスト建築だったとはおもいますが、お金が足りないところは市民のカンパでできたといういきさつがありまして、群馬・高崎の市民が愛する建物への思い入れが違いまして、たぶん、壊されない建物のひとつになるとおもいます。「ここに泉あり」という映画が1955年ごろできましたが、これは、群馬交響楽団というプロのオ-ケストラのはなしです。ぼくが小学校のころでしたが、毎年1回、体育館にオ-ケストラがやってきて、生の音楽を聞かせてくれることがありまして、交響楽団と音楽センタ-、それがひとつの現風景になっています。
 都城市民会館は、ここに来ないとわからない、来ればかならず誇れる建物であるというふうにおもいます。市民の方が、しっかり愛する、それがなにより大事だとおもいます。都城に何年ぶりかで来たのですが、高速道路から降りたら、道路がとても広くなっていて走りやすくなっていたんですが、郊外店がたくさんできていて、どこも同じような店がいっぱいあって、昔のせまい道路の方がよかったような気がして。簡単にたどり着きましたが、むかしは渋滞していて、なかなかたどり着けなかった、そういうものもですね。都城の街の特色というか風景が、もし、これがなくなったら、消えちゃうんじゃないか、そういうふうにおもいました。道路側の商店はしょうがないとして、やはり、まちのなかはぜひ、その面影を残していただきたいとおもっています。
建物を保存しようというと、壊したい人は、構造的に危ないからとか、維持費がかかるという理由で壊しちゃうとおもうんですけど、意外と、構造的に危ないとおもって調べてみると、大丈夫だったとか、そういうことがけっこうあります。もちろん、危ない建物もありますが、そこは、ちゃんと手を入れれば、じゅうぶん長持ちするとおもいます。
ヴォ-リズの設計した滋賀県の豊郷小学校が、壊されるというので調べてみたら大丈夫だったとか、東京の東洋英和女学院が、やはり壊されるというので調べたら、あと100年もつと言われたとかで、エピソ-ドはたくさんあります。やはり、残したい建物はしっかり調べて、保存あるいは再生の手だてを考えたらよろしいのではないか、とおもいます。

(兼松) ありがとうございました。たしかに、老朽化とか構造的な危険というのは、必ず出てくる課題です。きのうも副市長とお会いしたときにも言われました。老朽化という言葉はとても微妙で、建物にかぎらず、なんでも老朽化していくわけです。基本的にはですね。でもそれは、だめになっていくのではなくて、むしろ、アジが出てくるということもありますし、きちんと調査をして手を入れていけば残せる。どうもそのへんが気になります。
次に磯さん、続いてお願いします。

(磯) はい、磯です。資料にもありますように、建築ジャ-ナリストという仕事をしています。生まれたのは埼玉県で、名古屋の大学を出まして、仕事をしているのは東京で、九州に来る機会はなかなかないのですが、都城に来るのはきょうで3回目になります。いずれも、都城市民会館を見るために来たわけで、あの建物がなくなると、都城に来る理由がなくなってしまいます。それは僕にとって、すごくさみしいことなので、あの建物をなんとか残して欲しいとおもうわけです。
 僕の資料のところに『昭和モダン建築巡礼』著者、とありますが、これは日経ア-キテクチュアという建築の専門雑誌に連載しているものをまとめたものです。連載はまだ続いてまして、1945年から1975年までの30年間に建てられた、ぼくたちが見ておもしろいとおもった建物を取材して、それについて文章とイラストと写真で紹介するという仕事を続けているわけです。じつは、その第1回目に都城市民会館を取り上げているんです。この連載をはじめたのも、この連載でイラストを描いてくれている宮沢洋さんという日経ア-キテクチュアの編集者でもあるのですが、彼が都城市民会館を、ぜひいちど、この眼で見てみたい、というのが理由でした。この連載をはじめたきっかけにもなった建物でもあるということです。
 ここからは、ぼくが、都城市民会館のどういうところが好きか、なぜ好きか、というところを簡単に話をしたいとおもいます。じゃっかんの写真を用意してきましたので、それを見ながら説明させていただきます。
 「ウルトラセブン」というテレビドラマがありました。円谷プロがつくった怪獣と巨大ヒ-ロ-が戦うというドラマです。都城市民会館を見たときに、それに出てきた恐竜戦車という怪獣のことを連想したんですね。都城市民会館は、いろいろなものにたとえられます。いろいろなものに似ている。ヤマアラシと言われることもありますし、アルマジロと言った人もいたとおもいますが、いろいろな動物にたとえて説明されることが多い建物です。モダニズムの建築というのは、なかなかものにたとえられるということは少ないんですけど、都城市民会館は数少ない、たとえやすい建物だとおもいます。
 たしかにヤマアラシにも似ているけれど、ぼくは恐竜戦車、これを連想しました。ウルトラセブンと戦った怪獣のなかでも特殊な怪獣で、写真ではわかりにくいかもしれませんが、下の方が戦車になっているんですね。キャタピラで動く戦車です。その上に恐竜が乗っかっているというか、合体しちゃっている。そういう機械と生物が合体しちゃったような怪獣なんです。これを、都城市民会館と似ているとおもったんです。というのは、都城市民会館は、下の方が鉄筋コンクリ-トでつくられていて、その上に鉄骨造の屋根が乗っている。それも、ものすごく暴力的にコンクリ-トと鉄という異素材がくっついている、そういう建築なんです。まるっきり違うものが無理やりくっついちゃっているようなもの、僕が書いた記事ではキメラと書きましたが、そういうキメラのような建築、あるいは、恐竜戦車のような建築、そんな建築とおもっていたんです。
もうひとつ、日経ア-キテクチュアで書いたときのエピソ-ドを話しますと、恐竜戦車のようだと書く前に、似ていると思ったものがあります。これは、レコ-ドのジャケットなんですけど、エマ-ソン・レイク・アンド・パ-マ-というロックバンドがありまして、70年代に活躍したプログレッシブロックというジャンルのバンドです。そのアルバムに「タルカス」というタイトルのものがありまして、そのレコ-ドジャケットなんです。そこに描かれているのは、さきほどの恐竜戦車にも似ていますけど、タンクとアルマジロが合体したような、そういう奇妙なものです。これに似ている、都城市民会館はこれはのではないか、という文章を書いたところ、編集者に、そんなマイナ-なプログレッシブロックの話をされてもわからん、別のものに書き換えなさいと言われて、しかたなく書いたのが恐竜戦車のようだ、というものです。ウルトラセブンは、日経ア-キテクチュアでもぎりぎり通用するということですね。プログレッシブロックのバンドを出したのは、この絵が似ているということだけではなく、その音楽のジャンル自体が、ロックとジャズとクラシックと、そういうさまざまなジャンルをくっつけ合わせたような性格をもっているということもあって、都城市民会館を説明するのにふさわしい、そんな意味も込めたつもりでした。
こういう、建物のキメラ性、言いかえると、サイボ-グという言葉を使ってもいいとおもうんですけど、サイボ-グというのは人間のなかに機械を埋めこんだ、そういう存在ですね。1980年代半ばになると、サイバ-パンクというSFのジャンルが、小説とか映画で出でくるんですが、からだの中に電子装置を埋め込んで生活するという、あたらしい種類の人物が出てきて活躍するというものです。そういったサイボ-グ的な美学のさきがけなのかもしれない、そんなことをおもったりもします。
 もうひとつのこの建物の魅力は、側面から見たときの放射状のかたちのおもしろさです。次の画像をお願いします。(東国春知事の写真)先ほど昼食を取ったホテルで、この人を描いた土産ものがたくさん売られていましたけど、もちろん、東京のテレビでもこの人がしばしば登場するわけです。この人の出るテレビを見ながらも、こんな連想をしたりするんですね。(東国原知事が市民会館を帽子にして被っている写真)なんかそれだけ、この建物が強烈なイコン、イメ-ジを持っているということなんですけど、これもまた、建物のおおいなる魅力だとおもいます。
 知事には内緒にしておいてください。
 放射状の構成をとった建築というのは、ひじょうに珍しい。他には例がないといってもいいとおもいます。あえて、あげるとするなら、イタリアのス-パ-スタジオというグル-プが、60年代、70年代に活躍したわけなんですが、そのス-パ-スタジオがつくった、ひとつの建築の案です。実現したものではありません。「レジスタンスのための公園」というタイトルだったとおもいますが、こういう案をつくって発表したことがあります。ただし、これは1970年に発表されたものですので、都城市民会館の方がずっと先なんです。ですから、これをマネして都城市民会館があるというわけではありません。むしろ、都城を見てス-パ-スタジオがなにかを考えたという可能性の方が高いといえるとおもいます。
 放射状の形というのが、なぜ発想されたのかということですけど、かたちのおもしろさだけでは決してないとおもうんですね。兼松さんの話のなかにもありましたが、菊竹さんはこの建築を発表するときに設備とか環境とかのはなしを延々と書いているんですね。そういう設備とか環境とかが建築には重要なんだということを訴えようとしている。この建築では、ひとめ見たときは、かたちのおもしろさですとか構造のおもしろさ、そっちの方に目が行きがちなんですが、よく見ると、設備の方にもそれ以上におもしろいデザインがされているということがわかります。どうデザインされているかというと、目に見えるカタチと構造の考え方と設備の考え方を、すべて一致させるというか、ひとつのものにするということをやろうとしていて、それが放射状のものなんですね。中心からぜんぶ分かれてくるみたいな、構造もそうですけど、設備的にもそうなんです、機械室が真中にあるんです。そういった建築は、あまり例がないとおもいますが、そこから、すべてが空気とか水とかがいきわたる、そんな考え方をとっていたんではないか、とおもいます。
 時代背景をみていくと、建築界全体が環境への関心をひじょうに多く持っていた時期で、これはレイナ-・バンハムというイギリスの建築評論家が書いた『環境としての建築』という本の表紙ですけども、建築というものを環境という面から捉えなおしてみようじゃないかという趣旨の説明を書いた本です。本自体は60年代終わりにできたかと思うんですけども、記事自体は、60年代初めからからずっと書いていたものをまとめたものです。
そういった意味でも、音とか光とか、空気とか、目に見えないものをですね、如何にデザインしようかといったことが、菊竹の関心にあって、それが例えば、全体の形だけじゃなくて、現われている。僕がとても面白いとおもったのが、あの建物の中に行くと、空調のダクトが透明な素材でつくられていたりする。これもまた、目に見えないものをいかにデザインするかみたいなものが、ああいった透明なダクトに現われていたりするのかな、とおもったりもします。
設備と建築の考え方を一緒にしよう、統合的に扱おうという考え方は、このころの菊竹以外の建築家にもあらわれていて、たとえば、丹下健三なんかもそうですね。これは丹下健三が設計した山梨文化会館という建物です。1966年に完成していますから、都城市民会館と同じ竣工年です。写真で見てもわかるとおり、丸い筒のようなものが縦に何本も貫いているんですね。その丸い筒のあいだに床を掛け渡すようなかたちで建物がつくられていて、さいしょは全部に床があるわけではなくて、床が掛かってない空いている部分がある。もし、床が足りなくなったら、あとから、そこに付け足せばいい、そういった考え方でつくられていて、菊竹たちが言っていたメタボリズム的な発想をこれも持っているんですけれど、同時に、この建物では構造と設備の統合といったものが強く意識されている。丸い筒の中に設備系のものが全部押し込められている。トイレとかそういったものが押し込められていて、それが構造体になっている。コアシステムという言い方で、たとえば、東京の前の都庁舎もコアシステムという考え方で、コアのなかに設備とかを全部押し込んで、構造的にももたせるということで建築をつくっていますけれど、こういう構造と設備と統合するみたいな考え方が、いろんな建築家に関心をもたれていたんだな、といったことがわかるんです。では、菊竹と丹下がどこで違うのか、ということを考えると、丹下健三の山梨文化会館をみると、柱といったものにシンボル性が隠されている。柱が何本も直立していて、それがある種の崇高さというか、古典的な美しさといったものに回帰しているところがあるんじゃないかとおもうんですね。ある種の昔の神殿に柱が何本も建っているような、そういったイメ-ジに、さいごは行きついてしまう、そういったものと共通性を意識させるものになっているとおもうんですけど、菊竹さんの都城市民会館は、そういった古典性が微塵もなくて、つねに未来に向いているというか、未来しか向いていないというか、そんな気がして、それが菊竹さんの特徴なんじゃないかとおもったりします。
しゃべりすぎちゃって、五十嵐さんたちの言うことをとってしまったような気もしますが、とりあえずはそんなことで、僕がこの建築のこんなところが好きだという話をさせていただきました。

(兼松) ありがとうございました。都城市民会館の様々な魅力というのでしょうか、位置付けとういか、ユニ-クな視点からのものでした。ぼくは建築をやっているから言っていることがわかるんですけど、一般の方は、どういうふうに感じられたか、あとでお聞きしたいとおもいます。
キメラっていうイメ-ジはわかるんですけど、ぼくはキメラ時代の人間ではないので、キメラが舞い降りたというのは、なんだろうっておもっていたんですが、とてもよくわかりました。ぼくは、日経ア-キテクチャ-に「保存戦記」というのを隔月で短いコラムに書いているんですけど、編集者の宮沢さんがだいぶ手をいれてくれて、とてもありがたかったんだけど、磯さんでさえ、書きなおせって言われた、というのを聞いてホッとしたというか、うれしいことでした。
つぎに五十嵐さんに話をお願いします。

(五十嵐)しゃべるつもりで来たわけではなかったので、簡単につくったメモをもとに話します。
この建物のおもしろさにについては、磯さんから話があったので、もうちょっとまわりの状況をふくめて、考えていることをしゃべりたいとおもいます。
ちょうどこの建物は、41歳ということで、ぼくとだいたい年が同じで、ぼくが1967年生まれですから、早生まれなので同級生になります。もしかしたら、なくなってしまうということで、建築の寿命は、日本ではとても短いんですけど、ときどき街をあるいても、ふとまわりを見渡すと、40才のぼくの方が、まわりに見えているものより年寄りになっちゃっているという風景が、日本だったらあたりまえのようにあるんだけど、すごいことだなとおもいます。一方で日本は、男女ともに平均寿命が世界で12位とか最高の寿命であるのに対して、住宅の平均の建て替え年数というのは30年くらいで、先進国で比較したデ-タだと、最下位です。ようするに、人間の寿命の方が建物よりも長くなっている。これは、人間にとってはすごく健康だともいえるし、逆にひとりの人間が生きているあいだに風景が完全に変わってしまうという、けっこう恐ろしい状況にあります。そういった意味で、今回のこの建物も同じ状況にさらされている。僕は、今回はじめて都城に来たんですけど、この建物がなかったら、訪れることはなかったとおもいます。いま、シ-ズンでもっとも航空券のチケットが高くて、東京からここまで往復するのに7万円かかったんですけど、まったく割引がきかない。東京と仙台の往復を加えると、9万円になりますが、それでも、この建物を見に来たい、とおもうんですね。それは、やはりひとつの重要な建物があるだけで、ある町と一生縁のなかったかもしれない人を呼び寄せる魅力があるからです。いま、ぼくは東北大学に勤めているので、仙台にいて、仙台も数年前にせんだいメディアテ-クという建物ができたことによって、外国から建築の関係者が来るときに、立ち寄るようになった。それ以前の仙台は、建築の関係者にとって存在しない都市だった。都城の建物も、菊竹さんに興味のある外国人が来るとおもうので、そういう魅力を持っている傑作だとおもうんですね。
これを設計した菊竹清訓さんにとっても、もっとも油の乗っていたというか、勢いのいいときの作品です。当時、丹下健三さんを抜くというか、彼を超えるのは菊竹さんではないか、そういうふうにおもわれていた、黄金時代です。菊竹さんだからいいわけじゃなくて、菊竹さんも80年代、90年代となると、以前ほどの切れ味はなくなる。それだったらべつに僕は残そうと声をあげないとおもうんですけど、逆にいうと、菊竹さんのいちばんいい時代の作品が、都城にあるわけですね、それは菊竹さんだけではなくて、彼の関わったメタボリズムという建築運動というのは、いまでも、日本から発信した現代建築の思想で、もっとも有名なものは、あいかわらずメタボリズムなんですよ、じつは。だから、そういう意味で、メタボリズムの菊竹さんの黄金時代の作品でもあるし、単にそれは彼だけではなくて、日本の20世紀の建築の歴史をみても大事なものです。明治以降、日本が近代建築の動きをおっかけていって、60年代には、追いついたというか、追い越しちゃったというか、追い越した瞬間だったとおもうんですね。日本の近代は、海外でやっている建築の真似をしているところからはじめるんですけど、真似をしているうちに、戦後の復興もありますけれど、日本の建築の方が世界を抜いた時代でもあった。さっき磯さんが紹介したス-パ-スタジオも、当時の創造力の最先端だったんですけど、彼らは実現できなくて、絵で描いてますけど、菊竹さんは現実のものとしてつくってしまった。ヨ-ロッパの建築家がつくれない創造力をこっちは実作ですでにやっている。日本の20世紀の建築の流れをみても、世界に追いついた、いや超えてしまった瞬間のものというのは、やはり、ひじょうに重要だとおもいます。日本の建築史の位置付けとしても、菊竹さん作品のなかでも。
ちょっと話をかえて、さいきん、東京はものすごく開発がいっぱいあって、ミッドタウンができたり、六本木ヒルズができたり、品川でグランドコモンズができたり、再開発ラッシュなんです。この5年、10年くらい、都心の再開発が進んでいて、そのなかでDOCOMOMOの建築もいくつか危険になっていたりするんですけど、再開発なので、すごい巨額な資本を投じているけど、建築的にはそんなにたいしたことがない、しょうがない、そんなものがけっこうできていたりする。東京で一見華やかに見えて、六本木ヒルズだ、ミッドタウンだ、なんて言っているけど、そんなに世界の最先端というわけでもない、お金はかけているけど、世界に比して考えたときには、あまりたいした建築ではない。華やかだけれど、そんなに評価できない。
一方、ご時世というか、東京と地方の差がどんどん開いていっていると言われていますよね。そのときに、たとえば、都城のこの状況を考えたときに、せっかくここにしかないユニ-クな建物があるのに、それをみずから壊してしまったら、オウンゴ-ルではないかと。サッカ-で言う自殺点ではないか。ぼくは、まだバブルのころが実験的な建築をやっていたのかなと、さいきん、おもうようになっているんですけど、セカンドバブルの現在、意外に東京はろくなものを生みだしていない。地方の都城に新しい開発をする余裕がなくても、せっかくすでに持っている貴重なものをみすみす壊してしまったら、みずから失策というか、そんな気がすごくするんですね。
これはすごく、みるからに変わった形をしていて、キャラがたっている建築だとおもいます。わりとキャラがはっきりしていて、さいしょの兼松さんのレクチャ-のなかであった、東京や大阪の中央郵便局のモダニズムは、建築以外の人にとって、一見、なにがいいのか、わかりにくいものだとおもうんですよね、建築にかなり詳しくなってくると、愛着を持つのだけれど、それに比べると、都城市民会館はもっとわかりやすい、キャラがはっきりしていて、こういう建物ですらなくなるのかとおもうと、とても「せつない」。そんなことを今回来ておもいました。
もうひとつ、さいきん僕が景観論のことを書いているからみで、ちょっとふれておきますが、美しい景観、美しい国とかいう掛け声は、さいきん、やたらと聞きますよね、美しい景観をつくる会、というのがあって、なにか日本は景観や美しいものを一所懸命やろう、というような話が、なにかキャッチフレ-ズとしてすごく聞かれるようになって、じゃ、なんでそういう運動をしている人たちは、こういう建物に言及しないのかなとおもうんですけど、よく考えてみると、美しい景観をつくる会のホ-ムペ-ジで、醜い建物をつくった設計者のひとりとして、菊竹さんの作品があがってたいたりするんですけど、せっかく美しい景観をつくる会というのがあるのに、この建物がのらないというのは、ぜんぜん違うところで醜い、醜いと排除するんですけど、こういうのは残っていいというところに、なんで援護射撃がこないのは不思議だなと、今回おもいました。
そのカラミで言うと、昨年出た『「ALWAYS三丁目の夕日」という映画が大ヒットして、ぼくは、個人的には嫌いな映画なんです。なんで嫌いかというと、すごいCGの技術を駆使して昔のなつかしい風景はよかった、というのを映画でやっているわけですね。それを見て、われわれは「昔はよかった」と涙している場合かと。目の前にある、高度経済成長期の貴重な建物が、現実に壊されようとしているのに、一方で、CGの昔の復元した風景をみて、昔はよかったと言っている場合ではないとおもいます。だから、こんどあの映画の続編が出ますけど、ア-よかった、よかったと映画でノスタルジ-に浸っているあいだに、現実の方で事態が変わっていることに目を向けさせない、ひどい映画なんじゃないかと、疑っているんです。とりとめのないところですが、きょうおもったところは、そんなところです。

(兼松) 五十嵐さんらしいユニ-クな視点ですね。ぼくは『三丁目の夕日』を見て、涙ぐんだひとりなんですけど、東京タワ-も、じつはDOCOMOMOで選んでいるんです。やはりあの時代を象徴する建築のひとつとして。とはいえ、東京タワ-を拝むように見ているというのは、やはり、ぼくはいやだな。
たいへんなおもいをして7万円もかけて来てくださってありがとうございます。またあとで、話をうかがいますが、たしかに、オウンゴ-ルという言葉はこたえますよね。どうしてだろう、さっきの「三丁目の夕日」ですけど、昔を懐かしがっている時代じゃない、そんなこと言っている場合か、とういうのは本当に僕の心にも、みなさんの気持ちにも伝わってきたとおもいます。
それでは、次に倉方さん、よろしくお願いします。

(倉方) 倉方です。わたしは建築家ではなく、じつは、建築史家という歴史を研究しているものです。もともとですね、自己紹介がわりに話をさせていただきますと、建築史というのはいろいろなジャンルがありまして、日本建築史というと、だいたい江戸より昔を研究するわけです。わたしがやっているのは、日本なんですけれど、近代建築史という、近代というと、幕末からこっちを扱うということになります。近代ですから、幕末から第二次大戦までの建築を扱うのを、日本近代建築史と言います。わたしの専攻はそれです。さいしょは、穏当と言うか順当にと言うか、明治建築の研究をやっていまして、学位論文は伊東忠太という築地本願寺をインド風でつくった建築家というか歴史家がいるんですけど、彼の研究で博士論文を書いたんです。ただ、それを書く途中くらいから、だんたん、こっち側に関心が向いてきまして、さいきんは、もっぱら戦後の建築の研究というか、研究というのはおこがましいのでリサ-チをしています。そんなわけで吉阪隆正さんという建築家の本を書いたりしています。
戦後のものというのは、まだ本格的に研究の対象になっていないわけです。日本近代建築史というふうに、学会で論文として認められているのは、基本的には戦前までで、戦後のものというのは、あまりアカデミックなものとはみなされていないわけです。それはそれとして、戦後のものに関心が向いてきて、きょう、じつはわたくしも、はじめて都城市民会館を拝見させていただいたわけですけど、なが年見たいとおもっていた建築でした。なんで、そういったものも含めて、戦後に関心が向いてきたかというと、実際に調べたり、訪れたりしていると、こんなにおもしろいのか」ということが実感としてあったんです。なんとなく、本で読んだりしていると、わりと教科書的なことが書いてあって、これはモダニズムの正当なうんねんとか、構造的な先駆であるとか、そういうはなしを読んでも、あまりおもしろくないんですけど、実際に建物を訪れると、こんなに凄いものがあるのか、ということがわかる。ですから、そういったおもしろさ、建築そのもののおもしろさといったものが、戦後の建築にすごく感じたわけです。ですから、さいきんでは戦後の建物をすこし調べまして、すこし前に出したのが『東京建築ガイドマップ』といって、東京に残っている1980年代以前の建築を網羅的に調べてガイドブックにしたんですね。ふつう、ガイドブックというと戦前のものまでしか載っていない、あるいは現代のもの、1980年以降のものをあつめたマップは、『建築マップ東京』というのがあって、ベストセラ-になってますけど、そのあいだというものは意外に抜けているんですね。ですから、1945年から80年くらいというのはすっぽり抜けちゃって、そのところがいちばん、いま危ないんですけど、いちばん抜けちゃっている。そういうことをすこし書いたりまとめたりして、関心が高まればとおもってやっています。
明治の建築家列伝とかいう話も、とうぜん、要請が多いですからやりますけど、機会があれば、なるべく戦後の話に持ちこんでいくようにしていて、戦後の建物というのは、じつは、見どころが、すこし手がかりがあるとこんなにおもしろい、ということが伝わればいいなとおもってそんな講座をやっています。
都城市民会館は、ぜひ残るべきだ、とおもいますが、一方で、なんで、これが残らない、といいますか、一方でもうひとりの自分が、これを本当に多くの人が残したいとおもうかな、と考えると、おもわないんじゃないか、とおもうんです。それはなぜかというと、いくつか理由があるわけで、まずひとつは、ふつう、古いから残すというのはひじょうに耳ざわりがいいわけです。たとえば、これは千年前のものであるとか、二百年前の古文書であるとか、ハハ-て感じがして、年月の威力というのはたいへん大きいわけで、最古のとか、いちばん古いからとか言われると、なんだかよくわからないけれども、残した方がいいんじゃないかなとおもう。ですから、古いといいんですけど、これが新しい、古い中ではあたらしい、40年前というのは、古いから残すという論議にはなかなかのらないわけです。
じゃあ、一方で、こんな言い方がある。この都城という風土ならではのものだ。あるいは、風景とひじょうにあっているものだ、あるいは、まわりの環境と一体となって存在している。そういうのは、たいへん耳ざわりのいい言葉です。環境にやさしいとか、そういった同じ耳障りのよさがある。さきほど、兼松さんから「風景としての建築」という言葉があって、風景になっていくんだという話がありました。確かにそうだとおもいます。都城の市民会館も風景になっているとおもいます。ただ、もともとある風景と、これは近いものかというと、これはどちらかというと、磯さんが言ったように「怪獣」に近いものだ、というのは否めないとおもいます。もともとの山々とか、あるいは、もともとの場所に建っている木造建築ですとか、そういったものとは、まったく似ても似つかない怪獣のような姿をしている。ですから、その地域の環境とあって、やさしい建築だから残すべきだという伝統建築物のような話には、のらないわけです。むしろ、対極と言っていいわけです。じゃあ、なんで残すのかとなると、有名建築家だから残すのか、というおもいをなんとなく持たれている方がいるかもしれませんが、そうではない、有名建築家だから残すということでは必ずしもないだろう。じゃあ、なんで残すのかと聞かれたときに、ひじょうにわたしも迷うわけです。結局、困ってしまって、いいものだから残すという言いかたしかできない。
じゃあ、そうだとしますね、ただ、いいものというのが、どういう意味でいいのかというときに、おそらく、百人いたら百人ともさまざまだろうとおもいます。あるいは、未来にこれを見る百人は、また別の百個のさまざまな考え方をするとおもいます。ですから、なにが「よさ」か、ということは、いいものと「よさ」を発見できるものと、できないものがありますけど、なにが「よさ」かということは確定できない。だけれど「いい」としか言いようがないものがあって、この都城市民会館はそのひとつだろうとおもいます。じゃあ、どこを具体的に「いい」とわたしはおもっているかということなんですけど、ひとつだけ、話をしておきたいとおもいます。わたしの個人的な感情ですけど、この建物というのは、非常に乱暴な建物である。というふうにおもうんですね。こんな乱暴な建物は見たことがない。ですから、この良さというのはこの乱暴さだとおもいますね。それは、先ほど言った、ふるびたもので、古風な味わいがあっていいねという話の対極にある、あるいは、まわりの自然環境と伝統のなかで調和していいね、という話とも対極である。ですから、そういった乱暴さというのがひじょうにこの建物にあらわれていて、これは日本随一の乱暴な建物である、とおもいます。
それは、どういう意味で乱暴かというと、まずやっぱりこの時代にしか建たなかった建物だろう、とおもいます。その乱暴さというのは菊竹さん自身の乱暴さでもあるわけで、乱暴さというのは、別の言葉で言うと、ものごとをゼロから考えていこうということだとすると、やはり、乱暴になるわけですね。モダニズム建築というのは、これはひじょうにわかりにくい概念ですけど、わたしは、モダニズム建築というのは、基本的にはゼロから考えていくものだと考えています。流れだとか、チャラにして、ゼロから自分の頭でいいとおもうもの、あるいは、ひとびとのためになることを考えていくのがモダニズムというム-ブメントだと考えます。菊竹さんのこの建物は、モダニズムのゼロから考えていくという意味では、ある極地にちかいものだろうとおもいます。つまり、ふつうは公会堂はあんな形をしていないわけです。でも、あれがいちばん構造的にも、空調の空気が流れていく上でもいちばんいいかたちなんだ、あるいは機能的にもいいカタチなんだということで、あらたなかたちをやっていくわけで、すべてはここからはじまるんだ、昔のものは、役に立つものはもちろん取り入れていくけれど、すべてがこの自分の考えた論理というか理屈のなかで、みんなにいいものをつくっていく、そんな自信と勇気と責任感というものが、乱暴なものを生むわけです。いい乱暴なものをうんでいくというふうにおもいます。
ですから、それは菊竹さんの個人の現れであると同時に、やはりこの時代にしかあらわれなかったものであるとおもうのは、やはり、これを見ていると、「三丁目の夕日」とは別の意味で、高度成長のたまものであろうとおもうんです。つまり、わたしがなぜ、高度成長時代のもの、戦後のものに関心をもったかというと、いま思い起こしてみれば、そこに、違う日本をみていたんだろうとおもいます。わたしはパネリストのなかでは、この建物のあとに生まれた人間で、正確にいうと万博の翌年です。そうすると、わたしの知っている日本というのは、あまり今と変わらないわけですね、ひじょうにソフィスティケイトされて、やさしい人たちばかりで、表面的に、そういう日本なんですけど、60年代、50年代の新聞なんか見ていると、まあ、乱暴なんですね。どう乱暴かというと、なんか事件が起きると、被疑者なのに呼び捨てで、名前や住所まで書いてあったりとか、あるいは、東京オリンピックだというと、ガンガン道を広げて、堀の上にガア-っと首都高をつくったりとか、反対する人は国賊みたいにニュ-ス映画でいわれたりとか、まあ、ひじょうに乱暴な国だなと、つまり、それはアジアのどこか知らない国に近いような気がします。わたしたちが、なんとなく教科書のなかで知っている日本と違うものがそこにあって、建築もたしかにそういう部分を反映しているところがある。すべてではないですけど、この都城市民会館というのは、そういった、これから未来をつくっていくんだ、いけるんだというある希望、希望というと耳ざわりがいいんですけど、それは乱暴にちかいものなんですけど、そういったパワ-あふれる戦後のありかたをすごく表している建物で、こういったものは、もう二度と建てられないとおもいます。ですから、磯さんの言われたように、ゴジラとか怪獣というのは、まさにいい得て妙というか、乱暴な戦後の日本文化が生んだヒ-ロ-像といったものと近いものが、この都城市民会館の精神としてあるだろうとおもいます。ただ、それが単なるムチャクチャじゃない、というのがすごくいいところで、先ほど磯さんがモンスタ-・怪獣を出された。あれは乱暴なんですけど、生きているんですね。都城市民会館がなんで見たときに訴えかけるかというと、見たときに、ゼロから考えたものは、ひとつのあたらしい生物が生まれたような感じがするからです。つまりあれは、ばらばらのコンクリ-トや鉄骨や木のサッシを、単につながっているだけではなく、有機的に結びついている感じがする。いままで、見たことないんだけど、はじめて見ても、これはひとつの生きものなんだな、と感じられる全体感というか、そういうものがそこにあるような気がする。生命力といってもいいかもしれません。
そういったことが、きょう来ていろいろわかったことがあって、たとえば、コンクリ-トの下の部分がけっこう凝っているんですけど、出目地になっていて、出目地というのは、ふつうは型枠を組んでコンクリ-トを流し込むと、型枠を桟で押えますから、ふつうは入り目地になるわけです。コンクリ-トのパネルの間というのは、普通はできあがったときには、こういうふうにくぼんでいるわけですね、普通にやると。あれをよくみると、出目地になっていて、コンクリ-トの目地が外に出ているわけです。目地が外に出るように型枠を組むのは、ひじょうにたいへんなんです。すごく無理なことをして出目地にしてあるんです。あの建物は内井昭蔵さんという、そのあと独立した有名な建築家が担当しました。もう亡くなりましたけど、内井昭蔵さんいうのは、健康な建築というのを唱えて、一見すると菊竹さんの乱暴さとは対極のようなんですけど、その内井昭蔵さんが、自身の建築で、建築にひじょうに素材感を与えるひとつのやりかたとして使っているのが出目地なんですね。ですから、内井さんのトレ-ドマ-クなんですけど、その内井さんが菊竹さんのところで担当されていた都城市民会館で、これもじつは出目地だったんだと、はじめて気がつきました。当時はルイス・カ-ンとか、何人か出目地を使っていまして、だれがいちばん先かわかりませんが使っている。あれがなんでいいかというと、入り目地だと外から押えつけてつくっている感じがするんですけど、出目地だとコンクリ-トが解けてふわっと固まって納まったような、なんか物質そのままの生命力が凝固しでできあがったような感じがする。建築的には入り目地の方が正しいんですけど、感覚的には出目地の方が正しいんです。そういうところとか、コンクリ-ト、鉄骨のつなぎの部分とか、けっこうディテ-ル的にいろいろやっているから、生命力があって感じられる。そういうことを、きょうは発見しました。
ですから、やはりこの建物はほんとうは残るべきであるとおもうわけであって、話をまとめますと、ひとつは、高度成長というものの別の意味での象徴であって、これは、もう日本には2度と高度成長はこないわけですね、これからますます日本はいい社会になっていく。ああいう乱暴な社会、乱暴な社会というのはヘンですけど、ああいう乱暴さというのは、もはや人の受け入れるところではないわけです。ですけど、それをわたしたちは享受することができる。この平和な社会だからこそ、それを享受することができて、それは単なるノスタルジックなものだけではなくて、すこしとげとげしいものを含めて、わたしたちの財産とすることができる。これが低成長に入った日本のいいところだとおもいます。だから、こういった二度と作れない物、という意味では、法隆寺や五重塔とおなじ価値をもっている、ということをうまく伝える方法はないものかとおもいます。
それから、もうひとつ、そういったことは、物がなくなっていくとわからなくなる。どういうことかというと、たとえば先ほど、わたしが訪れて、これは出目地でいいんだと言った。それは、建物がなくなってしまうと、後から来る人は気がつかない。あるいは、百人がいたら百人が違う発見をするはずなのに、写真ではそれはわからないんです。建物があってはじめて、あるひとはその空間に、ある人は鉄骨のおさまりに、それを次に5年後、10年後に来る若い人が発見することを閉ざしてしまう。そんなことを、なんで、わたしたちがやっていいのか、本来はおかしな話であるとおもいます。
ちょっと長くなりましたけど、都城市民会館の価値について、わたしなりに、きょうは考えさせられました。以上で話をおわります。

(兼松) ありがとうございます。倉方さんのような若い世代、倉方さんは論客で知られてますけど、ぼくがいつもおもうのは、たとえば、都城ができたときにはまだ生まれてなかったですよね、都城より若い。五十嵐さんはほとんど同い年、同級生。ぼくは、都城を見て建築を志した、そんな世代の違いがとてもおもしろくて、考えたのですけど、もし、ほんとうにこれがなくなるとしたら、この建築はぼくより長い人生を生きていけないのだ。親にとって、子どもが先に死んでいくというのはつらいことですよね、その受け止め方がいろいろ違うんだな、というのがおもしろいとおもいました。
それから、出目地というのは、たしかに、なかのロビ-の天井を見ると出目地になっていて、たいへんですよね、作るのが。ぼくもこれを見て、ときどき、高橋靗一さんもやりますよね、たいへんだなとおもいながら、建築家は横暴だなと、たぶん、見積りを取るときに、仮枠何平米でいくらとやるんですけど、そんなこと考えなしにやる。だけど、そういうものが生まれてくる、その証であると。そういうものが生まれてくるのは、とてもたいせつなのかもしれない。
それから、乱暴だというのはおもしろいかもしれない。でも、ぼくは昨日来たときに見て、意外にしっくりきた、色もグレ-でなじんでいて、さっき、話したように、写真とか絵が頭にこびりついていて、「キメラ」などと、よくわからないながら、怪獣だとおもって来たら、そんなことはあまりなくて、街の中に馴染んでるなとおもったりしました。ひとりひとりのおもいが違うのかもしれないので、あとで会場の方にも聞いて見ます。
では、パネリストの最後になりますが、彦坂さんお願いします。

(彦坂) 彦坂尚嘉といいます。ここに、前にいらっしゃる人と違って、わたしは、建築関係ではなくて、古く言えば「絵描きさん」でして、現代美術家とも言いますが、いちばん年をとっているのかもしれませんが、1946年、昭和21年生まれでありまして、小学校一年生のときから、日展の先生に付いて絵を描いてきた、お絵描き少年でありました。その先生もまだ存命であり、このあいだ、渋谷の松涛美術館で回顧展をやっていまして、わたしの場合にはそういう意味では、小さいときから日展も見てきていますし、ふつうでいえば、保守的な日本洋画というか具象洋画になってしまうんですけど、中学2年生くらいのときに、たとえば講談社の世界美術全集とか近代絵画全集とかいうものを買って、ほとんど教養的には中学生段階で、美術館も博物館も見はじめていまして、若いときに見ると、とくに国宝とか重要文化財とかいうのは、中学生にはわからないんですよね。しょうがないですから、目で暗記しようとするんですね、だから、名前を覚えるとかクオリティを見るというか、ですから、そういう意味では、日本の国宝とか重要文化財を決定してきた目を受け継いでしまったところがありまして、そうすると、かなり悲劇になるんですね。
大学生くらいになりますと、だんだん、現代美術に目覚めて、日本の現代美術にふれていくんですけど、戦後の日本の現代美術というのは、いちばん代表なのは岡元太郎さんからはじまるような流れなんですが、あまりいいものじゃないですね。ひどいな、とおもうわけです。国宝や重文の目で見ると。それで、現代の美術はそんなにひどいものなのかなとおもうと、アメリカなんかを見てみますと、全部ではないですけど、ポロックとかアウシェンベ-グですとか、ウォ-ホルですとか、そのいい作品というのは本当にいい。それは、日本の国宝とか重文と変わらないクオリティがあります。ラウシェンバ-グという人のコンバインというゴミを引っ付けたような作品を集めた50年代の回顧展を、ニュ-ヨ-クのメトロポリタン美術館で見ましたけど、まったく、その、レオナルド・ダ・ヴィンチに匹敵するようなクオリティをもっています。
それが、日本の現代美術では、全部ではないですが、主要な人たち、岡元太郎に代表される有名な作家たちには、そういうクオリティがないんですよね。それで、わたしは、かなりいらいらするというか、居場所がないわけです。いい作家を見つけては、息をつくわけですけど、どういうわけだか、いま、五十嵐太郎さんといっしょに、20世紀の日本美術史を洗いなおすという「ア-トスタディズ」という勉強会をつづけているわけですが、それはつまり、日本の現代美術に対して不満をもつものだから、アメリカの現代美術史を勉強していくと、アメリカの現代美術史の場合には、かならず美術と建築とがくっついているんです。たしかに、古い美術を見た場合には、建築というのは美術作品なんですね。たとえば、いちばんわかりやすいところで言えば、バロック美術といったとき、バロック建築のイメ-ジがないと、バロックの美術は出てこないのであって、それが20世紀の美術にしても、アメリカの場合は建築と美術といっしょにくっつけることができますので、例えば、フランク・ロイド・ライトの滝が流れている建築とかを身に行ったり、60年代にベンチェリ-とかいう建築家が評判になると、それを見に行くわけです。むしろ、アメリカ建築を見に行くところからはじまり、それから五十嵐さんと知り合い、日本の戦後建築を遅まきながら見はじめたわけです。たとえば、丹下健三さんの新都庁舎なんかを見ているものだから、丹下さんなんかいってもしょうがないよな、とおもいながら、このあいだ、高松の香川県庁舎を見ましたら、これはほんとうに泣きましたけど、すごいものなんですね。
超一流の超一流の超一流というんですけど、超一流の3乗だといって、感動しました。美術の目で見れば、モンドリアンといえばモンドリアンですが、ひじょうによくできた建築でありまして、建築だけをつくっているわけではない。建築の外部だとか内部だとか、外部は庭を含めて、内部というのは、建築にある壁画を含めまして、よく考えてある。あるいは屋上庭園まで含めてよく考えてつくられていまして、感動するわけですね。
そういうふうに、わたし自身はいいものが好きなものだから、菊竹さんについては、「ア-トスタディズ」の第1回目で菊竹さんのスカイハウスを取り上げていて、わたしは不勉強でスカイハウスを見ていなくて、倉方さんも第1回目に出てもらいました。そんなご縁で今回も五十嵐さんが菊竹さんを見に行くと言うので、見ようとおもって来たんです。それでも、インタ-ネット上で写真でこの建物を見ると、わたし自身はいいもの、悪いものを含めてその作品の格というものを気にして、超一流から、わたしの場合はこまかくて、41流までありまして、42段階あります。42段階で見ていって、これは超一流の41流の超一流と言っているんですが、これは、レオナルド・ダ・ビンチのモナリザの絵と同じ格なんです。モナリザってよく見ると、ちょっと気持ち悪いでしょ。なにか不穏じゃないですか、それが41流性なんです。ヨ-ロッパのルネサンスですと、たとえば、ラファエロの絵の方がヨ-ロッパ人は愛していて、19世紀まではダ・ヴィンチよりもラファエロが主流でした。ラファエロの場合には不穏な臭いがないんですね。ダ・ヴィンチの場合はどこか暗い部分をもっていて、この建物もそういう暗さみたいなものがあって、ある、まがまがしさがあるものだから、それを乱暴という言葉だとか怪獣だとかというイメ-ジの部分だとおもいます。
ただ、実際に来て見てみるとですね、すごくよくできていて、びっくりするんですよね。造形的にも、放射状といいますけれども、放射状が左右対称の放射状じゃなくて、どうしてあんなカタチなのかよくわかりませんが、すこしかしいでいるわけですよね。それも、コンクリ-トと下のかなめの部分が、年代を経て味があるということもあるんでしょうが、上とのフォルムのつながり方がほんどうにきれいで、美術品としてすごいものだとおもいました。まわっていって見ても、たとえばへんな角(つの)みたいなものがあって、あれもすごいとおもうし、階段の表現とか、階段状のつかい方もすごくきれいで、とにかくたいへんな造形力ですよね。これはだから、香川県庁舎のモンドリアンみたいなものではなくて、モンドリアン的なものが内側からのり超えられていて、香川県庁舎的な面というのが、正面からコルビュジェ的なものがありますけれども、それを超えた、モダニズムの内側からモダニズムを超えるような表現になっていて、ひじょうに独創的だし、芸術的にすぐれている。ダ・ヴィンチとおなじ格ということは、人間がつくりえる最高の水準であって、そういうものに欠点はあるわけで、ものごとというのは欠点はあげられるんです。でも、あとから見ればモナリザの絵画に匹敵する絵画はないんですよね。それとおなじで、菊竹さんの建物というのは、もう、頂点の仕事であって、このあとそういう表現というのはないわけで、かけがえのないものですよね。それを壊すなんて、これはちょっとありえないですね。
 アメリカでフランク・ロイド・ライトの作品をいくつか見て、ニュ-ヨ-ク近代美術館で回顧展を見たんですけど、そのとき、日本にあった帝国ホテルは、回顧展では模型を並べてありますが、いろんな実物大のものとかたくさんの模型を並べた展覧会ですが、模型をずらっと並べると、すごい大きな建物として帝国ホテルがあるわけで、あれを壊してしまう。明治村に部分的にはありますけれども、あれを壊してしまう日本というのは、なんて野蛮な国なんだとおもいますね。あれは残しておいたら世界遺産になるような、フランク・ロイド・ライトというのは、世界遺産レベルのすごい建築家であって、あれを壊すのは信じられない。だから、かけがえのないものというのがあり、そういうレベルの建築だと、わたしは見に来ておもいました。
美術家というのは、正直言って建築のことはよくわかりませんので、建物の美しさだけなんですけれども、日本はなんでもすぐ壊してしまうのはともかく、ヨ-ロッパだったら絶対に壊さないはずですね。つかいづらくても壊さない、直しながら使っていく、不便でも甘受していく。この建物もこうやって残していくべきだし、残念なのは、2階の部分に増築してしまっているとか、入り口の部分を本来あったところよりも前に出している。あれは、菊竹さんの造形の凄さを削いでしまっているので、元に戻していただいて、ほんとうに菊竹さんのものを、まず美術品として、きちっとする。これは資産なんですよね、かけがえのない。
もうひとつ話があるんですけど、五十嵐さんに選んでいただいて、リスボン国際建築トリエンナ-レに行って出品してきたんですけど、リスボンというのは、ちょっとびっくりするのは、純粋美術というかファインア-トが、ほとんどないというと怒られますけど、見るべきものはない。つまり、となりのスペインは人類の歴史のなかで、たくさんすぐれた美術家がいるわけですね。ゴヤからピカソまで、ベラスケスもすごいですし、ところが、ポルトガルの美術家というのはいない。だから、人類の歴史に登場できるようなア-ティストを擁すということは、すべての国にできるわけではない。ただ、建築というのは、ポルトガルはいい建築があって、建築の方があれなのかなとおもうんですけど、菊竹さんの仕事は、単に県レベルとか国レベルの問題ではなくて、人類史に残るすぐれた建築なので、かけがえがないですね。壊しちゃだめですね。どういうたいへんさがあっても残して、これは資産ですから、それを見に多くの人が来るし、活性化します。
日本の欠点のひとつは、この建物の場合超一流ですので、じつは、日本の美術史というのは、超一流ではなくて一流が好きなんです。たとえば、明治以降、歌舞伎は江戸時代まで超一流だった。江戸の歌舞伎を見ていませんのでわかりませんが、西洋のオペラとかを見て、上流階級の人が見る演劇をみて、洗練させようとして歌舞伎のなかから下品なものを取ってしまった。さきほど言った41流性を取ってしまいましたので、歌舞伎は一流になってしまう。それに対して人形浄瑠璃はそういう洗練をしませんので、近松の心中ものなんかは41流性ですから、そういうものを削り落としては残せないので、そのままきている。文楽の方が超一流で凄いんですけど、歌舞伎は一流になった。超一流と一流の差がありまして、日本の社会はかえって一流を愛するわけです。一流というのは、べつにわるいことではなくて、人間というのは社会に生きてますので、社会の常識というか社会に適応するように生きていますので、一流といういうのは、社会的な常識に依拠した美しさですから、そういうものは残そうとするんですね。ですから、たとえばメトロポリタン美術館でゴッホの展示してあるスペ-スを見ますと、ゴッホの「糸杉」とか、超一流の作品には観客はあまり目を向けないんですよね。「アイリス」というきれいな花を描いた絵があって、これにはみんなデジカメを向けて写真を撮っています。人間というのは、多くの人は一流のものに目を向けて、超一流から目をそらすという傾向がある。ですから、ここで人気投票をしてしまって壊すのか壊さないのかという投票をしてしまうと、こういう超一流の建物というのは、多くの支持者を集めるのは難しい、だけど、長い時間をかけていくと、超一流のものが残ってきて、つまり、ラファエロよりもダ・ヴィンチの評価が上がってくるわけです。ですから、歴史の中でかけがえのないものというのは超一流のものですね。ほんとうにたいせつな時期にあるとおもいます。美術家からすると、そういう感想をもっています。とにかくがんばって残してほしいです。
わたしがいくら言っても、鎌倉に住んでいるわけで、はじめて九州に来ました。五十嵐さんより、わたしはすこしディスカウントして来ましたけれども、しかし、来れてよかったとおもいます。ありがとうございました。

(兼松) 建築家の視点ではないけど、話を聞いていて触発されました。ほんとうになくなっちゃうとたいへんだな、どうしようか、と心が騒ぎます。たしかに、超一流と一流という言いかたをされましたけれども、人間のもっているどろどろしているものというか、なまなましいもの、というような言いかたとは違いますか。

(彦坂) 芸術の歴史というものを見たときに、人間の文化はいちばんふるいところまで行きますと、たとえば生贄ですとか、処刑とか、そういうものを含んでいるんですね。フランス革命のときにマリ-・アントワネットがギロチンにかけられたときに、それを多くの人は熱狂して見ているわけですね。そういうふうに、鑑賞というのは、じつは41流性というか暗い部分を持っているわけです。マリ-・アントワネットは首を切られても、それを見ている自分は生き残っている、圧倒的に生き残っている人間の優越性があって、死んでいく彼女に対して優越性で見ているわけです。「ざまあみろ」とおもって見ているわけですけど、気がつくと自分もまた死ぬわけです。断頭台で首を切られていく彼女の運命が、じつは自分の運命でもあるわけで、それを反省したときに、41流から反対にひっくりかえって超一流というか正反対のもうひとつの眼、ですから、死するものとしての自分の運命を逃れようがないわけですから、それを甘受したなかで、人生について考える、そういう表現が出てくるわけです。ですから41流性と超一流性というのは人生の両極をもっているので、そういう内包性をもっているのがダ・ヴィンチのモナリザであり、菊竹清訓であるという。丹下さんはそういうものがゼロではないですけれども、たとえば香川県の体育館だと、和船をイメ-ジした、ある部分くらいものをもっていますけど、ですから、写真では写りにくいですよね、実物を見ないと。五十嵐さんは実物を見ないといけないと言って、建築家は本を読むのと旅行をしなくてはいけないという。そのおともをわたしはしているわけです。

(兼松) たぶん、芸術家も建築家もそうでしょうけど、ものづくりの心というのは、オリジナルをつくりたい、自分のものをつくりたい。ところが実際は人の軌跡の中でしかつくれない。倉方さんがさっき「ゼロから」と言いましたが、オリジナルをつくりたい、あの時代の菊竹さんがやったことが、じつは、それがどう伝わっていったかというと、なかなかそういうふうにはいかない。彦坂さんが言ったようなことを秘めているから。それが誰にでもできることではなくて、菊竹さんのあの時代の社会構成とか、そういうなかでしかできなかったということになるんでしょうか。建築ってそういうものも目ざすこともできるんだということもいま、触発されましたけどね。

(彦坂) でも、基本的には建築が大芸術でありまして、絵画も彫刻も建築の中から生まれてくるわけでして、建築こそが最大の芸術なんですよね。

(兼松) たしかに、ヨ-ロッパの建築を考えてみるとわかりやすいかもしれませんね。装飾などが一体になって。モダニズムになりますと少し変わってきますけれど、それでも、ああいったものが産み出されていく、その素晴らしさの原点が建築である、そういうことでしょうね。
ひととおり、パネリストの話が終わりました。これから意見交換に入りたいんですけど、すこし、ずっしりといろんな話を受け止めてしまって、どうしようかとおもいます。ヒラカワさんに、地元の建築家、市民の方といっしょにこの運動をやっている人を代表するかたちで、パネリストの席に座っていただいて、みなさんの話を聞いて、どういうふうに感じ、どういうことをやろうとしてきたか、そういう報告を兼ねて、ちょっと話をしていただけないでしょうか。

(ヒラカワ) たいへん、荷が重い質問なんですけど。わたしは建築家といっても、たいした仕事をしているわけでもありませんで、ただ、自分は建築家なんだと、高い志をもって仕事をしている、そういう人が建築家であると自分ではおもっていますので、住宅だろうが、犬小屋だろうがその志をもって仕事をしています。
わたしが、保存運動に関わっておもうのはですね、わたしより、はるかにいろんな仕事、役所の仕事などをしている建築家や設計事務所を営んでいる人はたくさんいるわけですが、この問題に関心を示さない人が多いです。なぜなのだろう、個人的に話をすると「あれは残したいんだよね」という人も何人かはいるんですけど「じゃあ、残そうよ」ということでみんなに呼びかけたり、活動をしましょうという人は少ないです。それらの人たちのほとんどは、役所の仕事をしている人が多いわけです。役所の仕事をしていると、役所には逆らえないということになる。そういう方々がいちばん仕事をしていて、建築家として都城ではいちおう名が通っている人たちであるといえます。そういう構図がある。おそらく、日本全国どこでも一緒なんでしょうけれど、政界・財界一緒にやってきた構図の中で、都城市民会館も捉えられてしまうところに、悲しさ、憤り、絶望感を感じてしまいます。たとえば、新しい建物をつくります。みんなが喜びます。政治家は反対しないし、地元の人たちもよろこぶ、建設業者もよろこぶ。そして、はい、新しいものができました、古いものは壊しましょう、そしてまた新しいものをつくりましょう。そういうかたちでずっとやってきて、けっきょく、都城とはなんなのだろう、せっかくこうして、すばらしいゲストが東京から4人も、しかも自腹を切ってまで都城に来てくれて、壊しちゃいけない、絶対残すべきだと、わたしたちの期待以上のすばらしいコメントをしてくださるわけですけれども、そういう価値観とはかけはなれた理由で決まっていく。政治家と業者のみなさんがたの日常の付き合いの中で決まっていくのかもしれない。いいものだから残す、悪いから壊すのではなく、使えるから残す、使えないから壊すというのではなく、それとは関係ないところでものごとが決まっていく。そういうところにむなしさを感じます。

(兼松) それも、なまなましい話ですね。保存というのは、決してうしろ向きの話ではない。先ほどの彦坂さんの話によると、これは世界の遺産である、これをほんとうに壊していいのか、と、ぼくもおもいましたし、じっさいにいくつか、ぼくも保存にかかわってきまして、いまの時代そうおもう部分もあります。
あまり、重く、暗くなってもよくないので、すこし、意見交換しましょうか。さっき話が出た、新しくつくった建築がとてもお金がかかっていて、空調もよくて、音響もいいけれども、どこにでもあるものという五十嵐さんの話ですね。ぼくはきのう、都城の新しいホ-ル「MJ」を見て、ずいぶんお金をかけてしっかりつくっていて、そこで、中学生が発表の稽古をしていて、子どもたちがあんなすばらしいところで発表ができるというのは、喜ぶだろうなとおもいながら、でもほんとうは、もっとあかるい開放的な、ものを生み出していくことが触発されるような空間の中でできたほうが、もしかしたらいいのかもしれないという、複雑なおもいがしました。あの建築がだめだということではないけれども、いちおう建築にかかわる人間として、どうしてこういうことになってしまうんだろうと思ったのです。とくに、我々は東京にいるものですから、まあそこで仕事する面で話をしてみて、確かに効率はいいけども、みんな一生懸命オリジナリティを求めているようにみえながら、何もいいとこなしというふうに見えてしまう。きのう、都城に来て新しくつくったものを拝見させてもらったら、これも東京に建っているものと同じものだ。別にあれを批判をしているわけじゃないけど、どうしてそうなっていくんだろうと。都城市民会館との関わりみたいなことを、五十嵐さん、なにか改めて感じることありますか。

(五十嵐) やはり倉方さんが言っていたように、時代の産物みたいなことが大きいかなと思うんですね。やったことがないことにチャレンジする意気込みがあって、例えば60年代の総決算として1970年に大阪万博が開催されましたが、当時の関係者や成果物をみると、とにかくわからないなりに、ある種すごい前衛的なことが行われています。だけど、一回やってしまうと、だんだん経済的にできるな、みたいなものが先に走ってしまう。繰り返すうちに、博覧会が劣化していきます。いま起こっていることというのは、基本的には失敗しない事のほうが最優先になってしまっていて、まあ想定の範囲内で安定したモデルでつくっていくというようになっている。現象としては、いま起きていることは、変に実験的なことをやって失敗するよりは、「ほどほど」で成功しましょうという状態になっているから、ちょっと、時代性もあるかな、と個人的にはおもいました。

(兼松) 時代性ってちょっとこわいところもありますよね。それはあの都城市民会館をつくることのできた時代、そういう時代だったのでしょうね。今はそれが許されない時代になっている。さっきおっしゃった美術の世界でも、今の時代はどうも先が見えないみたいな、そういう言い方になる。分類するとそういう見方になる。今の時代はそういう時代ですかね。

(彦坂) 五十嵐さんがおっしゃっていたように、菊竹さんにしても後になってくると、本当の意味での近代でいうと、水が流れている川として、とうとうと流れている近代のなかで、菊竹さんは、それに辿りついて水蒸気になって蒸発してしまう。いまはそういう時代だと思いますけれども、そういう状態になったときに、菊竹さんは、時代に覆われてしまっていて、簡単に言えば、菊竹さんのなさろうとしたことは、全く違う次元で別の水準にかわってきてしまうので、菊竹さんのこの建物、いまみても近代建築ですよね。その良さというか、力強さというか。

(兼松) そうすると、そういうのを発見する目を我々が持っていなきゃいけない。
 さっきおっしゃったのは、欠点とかいろいろ見ていくよりも、この建築のすごさみたいなものを、やっぱり伝えていかないといけないということだと思いますね。

(彦坂) たとえば、いい例えかわからないですけれども、ジャニス・ジョップリンという歌手が登場して、すぐに死んでしまうんですけど、ジャニスがうたった歌の欠点をあげつらうようなことも言われたんですけど、今になって思うと、ジャニス・ジョップリンに匹敵する歌手はいなかったわけですね。彼女の個性とか欠点を含めて、すぐに死んでしまうような鮮烈さを含めて、彼女の歌声は今でも、本当にパーフェクトとというか、クラシックの歌だと思うんですね。同じことが菊竹さんの建築にも言える。

(兼松) 菊竹さんのこの時代の建築、まあ無くなったんじゃ意味ないわけで、まだ、どうなるかわかりませんけどね。

(彦坂) だから後から越えられないものってあるんですよね。それは時代性なのかもしれないけど、そのときに全力を尽くして、突出してて、倉方さんがさっき乱暴とおっしゃったけど、非常に独創性が高いですよね。

(兼松) 誰にもトライできなかった。それをやってしまったという・・。彦坂さんの考え方もわかるし、そうだけど。あまりこういう話をしていてもしょうがないところがありますので、会場に、ちょっとお聞きしたい方がいらっしゃるので、ちょっといいでしょうか。
実は、九州大学の末廣さんがいらしていますので、実際にご覧になって、これが危ういということについてですね、コメントをお願いします。

(末廣) ぼく自身、たまたまここに来る用事があって、タイミングが合ったので、いろんな話が聞ければいいなとおもって参加しました。
 ぼくは今、大学で教えているんですが、自分も設計をやっている人間です。市民会館を最初に見たのは、今から10年くらい前に、鹿屋で長屋を2棟ほど設計したことがあってですね、鹿屋にいくときに福岡から行くんですが、福岡から高速できて、ここから鹿屋まで一時間ちょっとかかるんですが、その途中10号線を通るときに、すごいものがある。これはなんだと思って、学生のときに教わった菊竹さんの都城市民会館が、まさかこんなところにあるということを全然気がついてなくて、それですごく驚いて、拝見させていたただきました。これはすごいと思って、それから何度か学生と一緒に現場に行くときは必ず寄っていました。
それで最近、それが壊されるということを聞いて、「そんなバカな」と思ってました。ただ、市の関係の方に福岡で会って話すことあったんですが、まあ、いろいろ財政の問題が厳しくてということで、やっぱりそれもわからなくもない。そういった現状も肌に感じているところがあってですね、ようするにお金がないんですね。残せと言っても、そういう余裕がないというのが現状だと思うんです。
このまえ、北九州で生活保護を受けている人が保護を外されて亡くなったとか話もあるくらい、行政側もどれだけ切り詰められるかということで、あまり綺麗ごとを言ってもしょうがないなと思っています。何でそういうことになるかというと、日本は資本主義社会で、資本があるところにお金が集まるということですから、まあ、東京と地方都市の格差ということが言われるけど、これはもう何ともしがたい。なおさら地方都市が厳しいのは、これまで建設業に補助金がおりていたのが、どんどんそれが絞られてきた、それで地方都市の経済がもたなくなってきた。新しいホールも、補助金で建てているわけで、地方にそれだけの財政余力があるわけではなく、全部東京からのお金で成り立っている。
じゃあ、こういう建物をどうやって残そうかというときに可能性があるのは、もう補助金しかないわけですね。これは、地方ではどうにもならないので、例えば、DOCOMOMOに指定された近代建物を残すためには補助金を出す、という法律を作ってもらうということが一番早くて、議員さんも喜んでお金をとってくるということになるわけですから、そういった運動をすべきだと思うんですね。
そういった価値を認めてもらって、新しい普通のものをつくるよりは、いまあるものを文化的遺産として残して活かして、環境的にもエコロジカルな再生をすることによって、補助金を出しましょうという話が一番いいのかなと、聞いていて思いました。
ただ、そんなことをいっても、壊されそうな建物を目の前にして、そんなことが今すぐ実現するわけでもないので、皆さんがたと協力して、何か活動をするのがいいかなと思うんですが、それ以外には、どうすればいいかというと、要はお金がないわけです。再生をするというとお金がかかるので、だから、しばらく放置する、なにもしない。朽ち果てるまで放っておけと。
 たとえば、軍艦島を最近、世界遺産に登録しようという動きがあって、あれも何十年も放置されているんですけど、とりあえず壊されていないから、放置されているからどうにかなるわけですよね。例えば、ロシアのメルニコフ自邸なんかも、悲惨なことになっていたけども、とりあえず、壊されていないから残っていて、それが再生するきっかけになったりする。解体工事にもお金がかかるので、解体費がもったいないから解体もしない。とりあえず放っておく。そのうちに補助金もつくかもしれない。社会的に、そういった建築的な文化に対する評価も、いまよりは少し高まってくる可能性があるかもしれない。そこにかけるしかないかなと思いました。

(兼松) ありがとうございます。けっこう悲惨だというお話ですね。
DOCOMOMO
の存在も一人歩きしているところがありまして、実際に関わっている立場からすると、たいへんありがたいし、責任も感じます。確かに文化庁なんかが、建築の中から文化財をえらぶときの基礎的データとして認知されているとおもいます。
前川國男の設計で戦後に建てられた日本相互銀行本店というのが東京駅の八重洲口にありますが、それが建て替えられるという話がでたときに、DOCOMOMOで選定したということもあり、その銀行のトップなどと話をする機会がありました。清水建設の設計施工というかたちになったんですが、設計した前川事務所に相談しながら、いま、いろいろ検討しているようです。でもなかなか簡単にはいかない様々な問題を抱えています。ますます、DOCOMOMOの役割が試されているような気もします。DOCOMOMOというのは、ある意味、任意団体で、会員の半分は一般市民と学生さんです。建築のすばらしさを社会に伝えて、建築はとても大切なんだ、実はとても魅力的なんだということを伝えています。
都城の方々の話を聞いていますと、すこし放って置くのはどうかと、壊すのを待ってもらおう、そういう運動にシフトにきりかえて相談してみてはどうだろうと、考えていらっしゃるかたもいるようです。たしかにそうかもしれない。
ふと思い出したんですが、オルセ-美術館なんか何十年も、もっとですか、放っといて、やっとリニュ-アルして美術館として使えるようにしたという懐の深さが欲しいねという話を、朝日新聞の松葉一清さんとしましたが、それだけの気持ちの懐の深さが、日本にも欲しいとおもいます。
パネリストのみなさんはどうでしょうか。どうすればいいのだろう。この建築は無くしてはいけないというのはよくわかったんですけど。

(磯) 末廣さんの話に同意するんですけど、付け加えるとするなら、あの建物のおかげで、お金が動くということを示していければいいな、とおもいます。きょう、ぼくは、五十嵐さんをはじめ、10人でいっしょに東京から来ました。都城に宿泊代も食事代もお金がおちることになります。経済効果というものが建築によってうまれるということを示していきたいとおもうんです。もっといい方法というのは、都城市民会館以外で、いい建築をこの近くにあと2つ3つ、つくるんですよ。そうしたら、建築を見たいという人は都城市内のホテルに泊るようになるわけです。いままでは都城市民会館ひとつしかありませんので、東京から来る人は、都城市民会館を見てから宮崎市にもどって、宮崎市に泊ってしまうかもしれない。それが、都城に他のいい建築があると、都城に泊ることになるでしょう。いい建築をつくることによって、建築の経済的な価値というものがうまれる、そんな方向になるといちばんうれしいとおもいます。

(彦坂) 美術家の立場で言いますと、わたしが建築を観賞しておもしろいと感じたり、感覚を享受するのですけど、ふつうのひとが建築を観賞しずらいとおもうんですね。わたしが仕事をしているのは藤沢市なんですけど、藤沢市には、たしか槇さんだったとおもいますが、秋葉台の体育館があります。この体育館が、槇さんがつくって、こうやってできたというパンフレットとか案内があるかというと、ないんですね。この建築は、だれだれがつくって、こういう価値があるという、表札みたいなものが、普通の人が、中学生以上の人がそれを見たときに、ちゃんと教養というか知識がつくように、それをつくるようにしないと、みんなわからないんではないでしょうか。ちゃんと建築家がつくって、意味のあるものだということを、みんな発見するとおもいます。 
山田守さんの(高松の)病院、あれも五十嵐さんが見ろっていうから見たんですが、あれもすごくきれいなんですけど、普通にみると古びちゃっていて、あれをすぐれた建築だとは気がつかないとおもううんですよね。

(兼松)山田守。そうですね!

(彦坂)そんなことを考えずに、ふつうに入っちゃうと、たんに古びた病院で、気がつかないんですね。

(兼松) いや、それはたしかにそうかもしれない。村野藤吾の八ヶ岳の美術館というのがあるのですが、そこに行って写真を撮らせてくださいと言ったんですが、村野藤吾という建築家の作品であるという展示も表示もなにもない。
村野藤吾の設計した千代田生命ビルというのが東京の目黒区にあって、それが目黒区役所に転用されたんですよ。そこでは村野藤吾の映像も流れていて説明もあって、見学もちゃんとできるようになっている。
 たしかに、都城の菊竹さんの建築は話題になって、菊竹さんがもてはやされましたけど、それまで、菊竹という建築家はどういう建築家であるとか、メタボリズムなんて言葉は、建築界でもよく知られていない建築思想でした。ですから、そういうものを、具体的につたえるようなことが必要かもしれないですね。

(彦坂) たとえば、立川ファ-レというのがありますが、そこにたくさん美術作品をつくったんですけど、それは、立川の住民たちのなかから作品を見るツア-みたいなものをやっていて、なにかをひとに知らせる努力をしないと、放っておくのはいいとおもいますけど、その建物のまえに看板をたてて、これはそういう価値のあるもので、見るポイントみたいなものを解説してくれる建築ツアーをやるとかですね。

(兼松) わかりやすくですね。磯さんのやっているように、わかりやすく伝えるやり方は必要かもしれませんね。建築ツア-というと、どうしても、モダニズムではなくて、お寺とか、古い街並みとか町屋とかそういうものになるんですよね。勿論モダニズム建築だけがいい建築とは言えないんですけど、あたらしい建築のたいせつさとか、魅力を伝えるようなことをやっていった方がいいですよね。
きのう宮崎空港から都城にくるときに、空港の近くの坂倉準三さんの設計した(担当:阪田誠造)青島の青少年センターを見学して、ものすごく感銘を受けたんですけど、これではみんな宮崎市に行ってしまいますよね、都城ではなくて。それでは困りますよね。

(磯) ぼくたちは、あしたは日南に丹下健三が設計した日南市文化センタ-を見に行く予定なんですが、そういったものと組み合わせて周遊コ-スにするとか、霧島にいくと、槇文彦のコンサ-トホ-ルや早川邦彦の美術館がありますので、そういったものと組み合わせてみてもいいですよね。

(兼松) たまたま、きのう日南の丹下さんの建物を見学したんですけど、あそこはお金がないから使い続けますということで、改修したんです。それがちょっと残念な改修で、おもては残っていますし、なかはもともとのコンクリート打ち放しをペンキで塗ってあったりして、すこし残念ではあったんですけども、とりあえず残してある。それはやっぱり建築家にとっては、宮崎にきたら、どうしても、あれは見ておきたい。
都城にくれば、いくつか改修されていますが、オリジナルで残っている。貴重なので、120億円かけてなんでこんなものを、お金がないのに、と釈然としないんですけど、その3分の2くらいでも立派なものができますので、その3分の1で改修すれば、もしかしたら、よっぽどいい、そんなことを言うと怒られますが。

(倉方) さっき五十嵐さんが言いましたが、東京というと六本木ヒルズができたり、表参道にもできていますが、ああいうのをいったいおもしろがっているのはだれなんだろうというと、わたしのまわりには少なくともいない。若い人がああいうのをおもしろがっている人が、東京にはたしているのかとおもいます。それでも、東京には人がいっぱいやってきますから、ひとり一回づつでも来てもらえれば、まわっているといことになるんですが。
なにが言いたいかというと、たとえば、若い人、センスがある人、ほんとうにものを選ぶ人は、どこをおもしろがるかというと、たとえば、裏通りといいますか、昔の歓楽街とかを中を替えて服屋にしたり、古着屋にしたりとか、たとえば東京で言いますと、中目黒とか、従来は繁華街じゃないような、裏道みたいなところを、うまくおしゃれに、ちょっと古びた味わいを残しながらあたらしいものに替えていくところが、どこでも地方都市でもあって、そういうところがおもしろい。
きょうも都城市民会館を拝見すると、ほんとうにそのままの状態で残っていて、すごくおもしろい。そのおもしろさというのは、中目黒とか古い町屋のおもしろさに似ていて、六本木ヒルズとかはその反対側にあって、それがなぜおもしろいかというと、こちら側に主導権があるとおもうのです。観賞というのは、こっちが価値を与えるということですから、改修というのもそうですけど、これを着なさいとか、これきれいでしょ、と受け取るというのは自分に主導権がない。いまの若いひとは自分に主導権がないといやですから、小さいころからちやほやされた社会にいますから、自分がなにか買わされているのではなくて、買っている、じぶんが発見している、という気分にならないとイヤなんですね。ですから、なにか古びたあじわいを残してあって、発見できるようなところが、人がくるし、新しい場所らしらというのがうまれてくるとおもいます。
そのときに、いまちょっと思い出したんですけれど、さっきわたしが「乱暴さ」と言ったんですけど、兼松さんは乱暴には見えないと言いました。わたしもそうおもいます。それは、なぜかというと、乱暴さというのは、つくったときの乱暴さなんです。ピカピカのときは、あれは乱暴以外のなにものでもない。写真で見るとすごくそれがわかる。きょう、そう見えないのはなぜかといいますと、古びているからだとおもいます。つまり風化している。菊竹さんの昔の建物をみると、風化具合がひじょうにいいですね。たとえば、コンクリ-トが、ちょっと苔むしていたり、時の流れがあって、なにか年代もののワインのように、ピカピカのものにはない。30年たたないとこのあじわいは出ない。
いまの若い人がどっちかというと、どっちもあるわけですね。ピカピカはいやだということで、わざと古びたジ-ンズをはいたり、ウオッシュをかけたものを着るのはなぜかといいますと、ピカピカのものが、なにか与えられた感じがして、いやなんだろう。
建築というのは、音楽とか小説とか絵画とおなじように、芸術というのはそれぞれ特徴があって、建築の特徴は古びるということであって、かならずしも作られたときがベストじゃなくて、そのあと、風化を含めてなじんでいく。作家もコントロ-ルできない不思議さがあって、それが、たぶん、建築を見る人の心をうつ。朽ちてはまずいんですけど、そのあとを、だましだまし使っていくということを、もうすこし日本の人はやってもいいんじゃないかとおもいます。
放っとけば残るというのは東京では無理で、地値が高いですから有効活用しないといけない。
残すことは東京では無理ですけど、他のところでは可能です。ただ、よくないのは、残すときにぴかぴかにしてしまう。だからどっちかしかない。まったくのゼロか、風化が取り去られてあたらしくなってしまう。それが五十嵐さんのいう景観ということにつながってくるのだろうとおもいます。そういった、ここでしかできないことがあるとおもいます。

(兼松) 東京と大阪とは違いますけど大都市圏のあり方と、地方都市のあり方は違いますよね。倉方さんの話でおもしろいのは、コンクリ-トも年月を経るとあじわいが出てくる。ふつうは、土とかレンガとかそういうものがだんだん、あじわいが出てきて新しいときよりよくなってくる。だから、そういう使い方を建築の設計をしていくときに、考えながらやるんですけど。
きょう、じっさいに見ると、なんとなく、街のなかに溶けこんで見える、というのは、コンクリ-トの味わいということがあるのかもしれないとおもうんですね。
会場の人からも聞きたいんですけど、その前に田島さんに聞きたいのは、どうもわたしたちは東京から来ているものですから、大都市圏の問題を扱っている。ところが、地方都市には地方都市の問題があるわけです。福岡も大都市ですけど、東京とは違う、都城に通じる問題があるのかもしれないとおもうのですが、きょうの話を聞いていて、なにか考えること、感じることはありますか。

(田島) やはり、福岡は東京にかなり近いところがありまして、もうひとつは、戦争で古い建物がかなり壊れて残っていない。1920年から1970年までの50年間にできた近代建築は、調べてみたのですが、ほとんど残っていない。また、福岡にあったいい建物は、あっという間に経済的な理由で壊されてしまう。村野さんの設計したガソリンスタンドが天神のちかくにあったんですけど、壊すといったら、あっという間になくなりました。もちろん、ぼくたちにも声がかかって、調査に行きましたけど、それでも壊されてしまう。 
最近、浄水通りというところに、郵政のなかなかいいホ-ルがあったんですよ。しかし、いまはもう、壊している途中、いまなら壊している現場がみれますけれど。そんなのもぜんぜん、あっという間のできごとで終わってしまう。まさに東京といっしょです。

(兼松) 予定の時間もそろそろ、過ぎてきました。会場からどなたか意見はありませんでしょうか。遠慮なくどうぞ。

(会場から:黒木) わたしは市民会館の再生利用を考える会の代表をしている黒木というものです。
先ほどから市民会館の価値について、たくさん聞かせていただいて、わたしも都城の地元にうまれたひとりとして感動しています。ただ問題なのは、これを壊すというのは行政の人たちの意向なんですね。いまの話をどう伝えればいいのか、これがいちばん難しい点なんです。いちおう提案書なんかをつくって市に提出したり、議会にも配ったりしているんですけど、なかなか反応してくれないというか見てくれない。そのすばらしさを彼らに伝える技術がないといいますか、これをなんとかならないか、先ほどからおもっていました。

(兼松) それは難しい問題なんですけれど、ひとつは、きょうのシンポジウムの内容を、できればテ-プを起こして、冊子にするのはお金がかかるのだとしたら、それをコピ-してファイルにして関係のところに配ればいいとおもいます。
それから、きょうは磯さん、彦坂さんもいますし、五十嵐太郎さんは、あちこちで活躍していますので、そういうものをベ-スにしながら東京から発信する。田島さんは、福岡は大都会ということですが、JIAの前九州支部長をしていますし、宮崎県の建築家もいらっしゃってますので、そんな人たちとネットワ-クを組んで、そんなところで地道な活動を、のんびりとはしていられませんので動かしていく。
きのう副市長に会ったときに記者会見をやって、新聞記者も来てくださったんですけど、ほんとは、きょうこの会場にも副市長に来ていただいて、展覧会もやってますので、それを見てこのシンポジウムを聞いて、あらためて市長の気持ちを書いてもらう。
たぶん、みなさんも記者の方に面識があるでしょうから伝えていただいて、それを記事にしてもらったらいかがでしょうか。ただ、あした選挙というのは困りましたね。だけど、やれることはやった方がいいとおもいます。他にいい提案はありませんか。

(田島) きのう、保存活動をする人たちと酒を飲みながら、話をする機会がありました。その席で、室田君から話が出ましたが、とりあえず、一年間壊すのを待ってください、そういうお願いをしてはどうだろうと、一年間あれば、ネットワ-クもできて、いろんな活動できるのではないかと。
時間がないとできませんので、とりあえず一年間待ってください、そのあいだに運動をする。これは、いい方法だとおもいました。

(黒木) 市民の意見を集約した結果であって、市長は、苦渋の選択なんだ。市民のアンケ-トも取った、これは仕方がない、やむを得ないというわけです。

(兼松) そういう言い方をしますし、アンケ-トの結果は、アンケ-トのとり方に問題があったのかもしれない。
国際文化会館の話を先ほどしましたが、これは民間ですが、財団法人なので外務省の管轄なんですけど、理事長が苦汁の選択をして、建てなおしのために意気揚揚ときて、建てなおして再建するつもりできたんです。ところが、建築界から残して欲しいという声があったときに、すごく悩まれて、たいへんなおもいだったと、夜も眠れないおもいをしたのだとおもいます。しかし、それを取り消して改修保存した。それがいま、すごく評価されています。国際文化会館ですから、外国との交流ですので世界に伝わっていったわけです。
DOCOMOMO
から要請もしますけど、われわれも、シンポジウムなどで発信して、そういう地道な活動をやりました。
市長は苦渋の選択と言ってますけど、もしこれを残すことになったら、名市長として後世に名を残すことに間違いなくなるでしょう。なかなか行政で難しいのは、県と市の関係があります。たとえば、国会議員がなかなか市に対して要求するのは難しいということがあって、そういう話になってしまいますね。でも、さっきおっしゃったように、できることからいっしょうけんめい、もういちど、見なおしてやる。というくらいしか言えなくて申しわけないんですけど。
もうひとりだけ、さいごにお願いします。

(会場から:柴) 宮崎市から来ました。柴といいます。都城市民会館の保存運動に関しまして、いろんな方が来るようなので、どんな話をされるか、興味をもって来ました。
さきほどから非常に高い評価を建物に対してされているとお聞きしています。わたしは建築の設計に携わっているのですけど、建築の設計に携わる立場から考えると、ほんとうにいいなとおもっている建築は、けっこう若いうちに見に行くんですよね。全国いろんなところに見に行く。建築家はそうしているとおもうんです。日本だけでなく、世界にも。ところが、きょうお見えになっている方は、はじめてという人がたくさんいらっしゃって、出てくる言葉ではひじょうに高い評価でして、なにか期待をしてしまうのですが。社交辞令で言っているのではないか、せっかくだから、壊されるから見に来たというところが、ひょっとしてあるのではないか。もしほんとうに、メタボリズム、菊竹さんの世界に通用する思想的なものを見たいというのであれば、もっと、若いうちに来たのでないか、とおもいます。これが壊されるから、危機に瀕しているからこそ、もう見られなくなるから来たんではないか、という印象をもちます。
これを企画した市民の方からの誘いで来たのかもしれませんけど、きょうのみなさんの評価の一言一言が、残念だ、残念だと、いまさら、市に認定書をもってきたとか、壊されるものに認定書をつけられるわけがなくて、市役所の倉庫かどこかに片付けられるのだろうかと、そのへんを話をきいていて感じました。
建築という立場に関わって、建築家協会の方、そして建築学会関係の方、建築評論という立場でいろいろ話をされました。先ほど、保存をという話がありましたが、いま、建築に関わる人たちが、どれだけ社会に対して貢献しているのか、政治とか経済とかの立場にたってものごとをやっている人たちの方が、貢献度という点では大きいのではないか。文化という観点から考えると、ひょっとして学会も家協会もあまり貢献していないのではないか、そんな印象をもっています。
そういうなかで、もっと市民ががんばりなさい、ネットワ-クを使いなさい、メディアを使いなさいよ、と言われてもですね、もうおそらく都城の方は、それを出し尽くしたとおもうんです。これは極端な言い方かもしれませんけど、試されるのは学会であり、家協会であるのではないか、DOCOMOMOの選定委員の人たちではないかとおもいます。先ほど、一流、超一流というかたちで、ひじょうにわかりやすい話がありました。超一流のものをつくろう、残そうということを一般の人に示すのは、一般市民では難しいとおもっています。それは専門的な立場の人たちが声を大きくして発言してくださる、そういうことでないと、なかなか保存は難しいのではないかと、話を聞いていて感じました。
都城の問題だけでなく建築に対しての不信感が社会にありますけど、学会とか家協会が中心になって、積極的に、待っているのではなく、1歩も2歩を足を踏み出して、社会のためにという姿勢をみせてくれるといいのではないかとおもいます。
乱暴な言い方かもしれませんけど、以上です。

(兼松) ありがとうございます。おっしゃりたいことはわかりますが・・では、DOCOMOMOをなぜつくったか、それから建築家協会や学会でも保存の組織をつくって、ほとんどボランティアにちかいかたちでなぜやっているか。それは組織の専門家ということではなく、やっぱり、建築家個人の問題ですよね。志がある人が集まって、できることをやろうということで、やっとここに辿り着いたんですよ。遅いと言われれば遅いかもしれない。だけど、できるときにできることをやる。それを受けとめてくれる人がいる、われわれは、そうおもって来ました。ぼくは学生時代から都城市民会館に触発されていました。でも、なかなか行きたくても行けない。たくさん建築はありますし、好きな建築はいっぱいあるし、たまたまここに来ることができなかった。たしかに言われるとおりなんですけど、そう言われると、つらいですね。たいへん残念です。われわれはオ-ルマイティではないし、一個人にすぎないんですけど、そういうおもいの人達が集まってやっているわけです。ただ、ぼくたちはいろんなことをやって多少の経験がありますので、そう申し上げたわけです。

(彦坂) なんといいますか、もう、時代が終わってしまっているから、ある意味でアンティックとして、時代を超える価値として見えてくる。わたし自身は1946年生まれですから、敗戦の年に、1945年の815日に親がセックスすると、ちょうど1946年の625日に生まれてくる。じっさいには十月十日(とつきとおか)ではないですから、違うとおもいますが、そういう世代なものですから、戦後というのものが解体されてきている、ここ十数年で。おっしゃる気持ちはわかるんですけど、やっぱり、驚きがありますよね、金持ちになる、と公然と言われると。複雑系の価値観の人たちも公然と言うわけですよね。だから、弱肉強食だというわけですよね。だから、そういう、ソビエトが壊れたということの意味をさいきんですよね、突きつけられてくる。ソビエトがよかったと言っているわけではないんですけど、産業革命が起きたときに、その労働者たちの悲惨な状況を見て、ある正義感をもった人たちが空想的な社会主義を考える。だから、さいしょの空想性みたいなものが、最終的に科学的社会主義みたいになってソビエト幻想をつくって、じっさい近代においては成功していたんですけど、情報革命においてソビエトは失敗する。だからソビエトは壊れたんだとおもいますけど。
大きな時代の敷居を超えたところにぼくらは生きているので、おっしゃる気持ちはわかるけれども、個人の問題ではないですかね、時代そのものの問題であるから、こんどの参議院選挙も、どう転ぶのかわかりませんけど、やっぱり大きいですよね。小泉さんの劇場型の政治で、あれだけの人たちが街頭に出てきた。小泉さんを見にたくさん街頭に出たじゃないですか、その結果、自民党は残っているわけですから、どういうふうに日本の民衆が考えているのか、ということが、いまのこういった建築の保存にもかかわってくる大きな枠組ですよね。だからこの、県知事の登場というのも、大きなことだとおもうからTシャツを買いましたけれども、しょうがないじゃないですか、みんな時代に流されながら、あがいていくしかない。
ただ、来るのは五十嵐さんに誘われたから僕は来たし、見て、社交辞令で言っているんではないです。やはり、いい建築だとおもいます。こんなにいいとはおもっていなかったですね、正直に言って。写真で見ていたときには、壊されるのはしゃあないかなとおもっていたんですけど、本物をみるとぜんぜん違いますよね。

(兼松) 社交辞令でもないし、壊されるから見に来たのではないですよ。そんなおもいで来たのではありません。なくなる前に見ておこうということで来たのではなく、どんな建築か、ぼくの夢見ていた建築を、本物を見たい。なんとか残したい。多少ともいままで関わってきたので。そういうふうに、おもうとつらいと言いましたけど、それ以上言いますとおかしくなりますから言いませんけど、そんなおもいで来た人はこの中にはいないとおもいます。磯さんは3回目ですよ。これを見に来たんですよ、3回も。なくなる前に見ておきたいということで来たんではないです。それをぜひ、汲み取ってもらいたいですね。そのなかで、なにかできることはないか、模索しているわけです。みなさんとおなじように、ぼくたちも模索していて、そんなに、オ-ルマイティではないし、微々たるものしかなくて、ぼくの言っていることは的外れかもしれないけど、いっしょうけんめい考えたことを言って、そのなかで、なにか、できることがあればやりたいとおもって来ていますので、そこはぜひ汲み取っていただきたいとおもいます。
べつに、そんなエキセントリックなことで終わるつもりはまったくなくて、すこし、一年間ほったらかしにするとかのアイデアも出てきたので、ぼくたちでできることはやるし、みなさんでできるこことがあれば、ぜひやっていただいて、どんどん情報交換をしていくようにしていければとおもいます。

(倉方) 兼松さんが言おうとしていたことの補足なんですけど、理屈でかんがえると、団体は大きくなればなるほど、あたりまえですけど、団体はまとまらなくなって、日本建築学会も保存要望書を出してくれなくなっています。いまは、乱暴な時代ではなくて、民主主義の時代ですので、団体が多ければ多いほど、いろんな利害関係があります。大きければ大きいほど、あたりまえの話ですが、ある方向に向かうことが不可能であることは論理的に言える。だから、個人で動くしかない。もうひとつ、壊されるときに来るなんて「なんだ」と、感情的におもうんですけど、逆に考えると、壊されるときが最初で最後のチャンスでもありますね。平常時というのは、心の底では行きたいとおもっていても集まらないですね。壊されるというときに、はじめて集まるというのが、見方を代えるといちばんのチャンス。まあ、9割方負けますけど、負けても次があるとおもっていると負けるんです。そういうことをおもっちゃいけないんですけど、とにかくチャンスであることは間違いない。絶対いましかチャンスはない。そういう意味では、ひじょうに明るいということが言えるとおもいます。

(五十嵐) 建築学会だとか、JIAが社会的に弱いというのは僕もおもっていまして、学会賞でも作品賞でもそうですが、取っても新聞のニュ-スにすらならないというのは、死にかかっていても文芸の方があきらかに既得権益として新聞などのマスメディアなどに食い込んでいて、それは、なんとかならないかな、とおもっています。だから、自分でできる努力としては、新聞に書く欄を定期的に自分で獲得したなかで、社会に伝えることです。今回のこともたぶん、そういうかたちで書くと思います。都城に住んで訴えることはできないけど、全国紙のメディアを使って、自分なりの空中戦をやる、という感じです。
今回のことがあるまで、ここに来なかったのは、世代のこともあるのかもしれない。たしかに、この機会がなかったら来れたかな、とおもいます。90年代くらいから建築をまわるようになったときに、ちょうど、航空費が宮崎よりアジアの方が近くなって、というのが僕くらいの世代なんです。だから、海外に出にくい世代の人は、先に九州をまわったとおもうんですけど、僕だと、ちょうど、学生でもわりとアジアを含む海外に行きやすくなった。宮崎や沖縄はもうちょっと後にして、アジアを先に見たいというのが世代的にあったかな、という気がします。

(彦坂) 芸術ってなんなのか、という問題なんですけど、ひとつは骨董なのかもしれないということがあって、美術評論家の中原佑介さんが、芸術に歴史があるのではなく、芸術が歴史であると言ったんですが、たとえば、韓国の住宅がどんどん変わって、新建材で建つようになってくると、中にあった古い家具がじゃまになって、捨てちゃったわけですよね。ゴミとして捨ててきた。全部の家庭が捨てたとたんに、その韓国の伝統家具というのがアンティ-クになる。和紙の場合もそうで、和紙というのはむかしは日常生活で使っていたんですが、和紙が使われなくなって、和紙産業が滅びるわけですよね。滅びたとたんに、和紙をつくることそのものが芸術になった。だから、壊されるというか、ひとつの死をくぐらないかぎり、表現というのは残らない部分があるんですね。
お能もそうだとおもうんですけど、室町幕府が滅びたときに、お能はパトロンを失ったわけです。そうすると、お能の集団は、自分たちで自分たちを維持するという、一種の集団をつくって、時代を超えようとするわけですよね。時代を超えようとしないと、芸術として残っていかないということがありまして、わたしが属する現代美術というのも、じつは風前の灯でありまして、このあいだも、某県立美術館で学芸員としゃべっていて、この50年で現代美術って、ほんとうに壊れてなくなろうとしていますね、と言ってました。美術館の学芸員というのは、シュンとしているんですね。元気なのは、在野のわたしを含めて、傍流の人たちが元気でして、制度に頼ってないですから、どんなに全体が弱ってきても、死をくぐれば、生き残れるわけです。だから、さっき壊さないで残した方がいいというのは、そういうことでありまして、ある地点を超えれば、意味が変わりますので、そうやってサバイバルするしかないとおもいます。

(兼松) だいぶ時間が過ぎましたが、熱心なご意見をいただきまして、ありがとうございました。最後の方の言葉を重く受け止めて帰りたいとおもいます。
では、ヒラカワさん、あとはよろしくお願いします。

(司会者) 長時間にわたり、お付き合いくださいましてありがとうございます。いろんな意見が出ました。悲観的な見方もあろうかとおもいますが、わたし自身は、そんなに悲観的に考えていません。まだまだ可能性はあるとおもっています。しばらくほったらかしにしたらどうか、などと現実的な提案も出ました。都城市もバカではありませんので、具体的にどちらが得かよく考えれば、まだじゅうぶん可能性はあるとおもっています。
この窓の向こうに市民会館があります。この風景を、来年もぜひ共有できますことを祈ります。
きょうは皆さん方やゲストから、たくさんの意見をいただきました。わたし自身は、よし、もうすこしガンバルぞというか、モチベ-ションを高めることができたというか、元気をもらいました。ほんとうにありがたくおもいます。
ここにいらっしゃるパネリストのみなさん方に、盛大な拍手をいただきまして、これで終わりにしたいとおもいます。
(拍手)

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